呻吟語 / 内篇・修身・口に詩書して心は眾人
胸中有一個見識,則不惑於紛雜之說;有一段道理,則不撓於鄙俗之見。《詩》云:「匪先民是程,匪大猷是經,……惟邇言是爭。」平生讀聖賢書,某事與之合,某事與之背,即知所適從,知所去取。否則口《詩》《書》而心眾人也,身儒衣冠而行鄙夫也。此士之稂莠也。
新字:胸中有一個見識,則不惑於紛雑之説;有一段道理,則不撓於鄙俗之見。《詩》云:「匪先民是程,匪大猷是経,……惟邇言是争。」平生読聖賢書,某事与之合,某事与之背,即知所適従,知所去取。否則口《詩》《書》而心眾人也,身儒衣冠而行鄙夫也。此士之稂莠也。
書き下し
胸中に一個の見識有らば、則ち紛雜の說に惑はず。一段の道理有らば、則ち鄙俗の見に撓まず。平生聖賢の書を讀み、某の事は之と合し、某の事は之と背くと、即ち適從する所を知り、去取する所を知る。否らざれば口に《詩》《書》して心は眾人なり、身は儒の衣冠にして行ひは鄙夫なり。此れ士の稂莠なり。
現代語訳
胸の中に一つの見識があれば、入り乱れた説に惑いません。一段の道理があれば、俗な見方に折れません。日ごろ聖賢の書を読み、この事は書と合う、この事は背くと分かれば、従うべき所と捨てるべき所が分かります。そうでなければ、口では詩や書を語りながら心は世間並みであり、身は儒者の衣冠を着けながら行いは俗人です。これは士の中の雑草です。
解説
古典を読む目的を、判断の基準を持つことに絞ります。基準があれば、目の前の説や事を照らして採否が決まる。基準が無ければ、いくら読んでも口だけの人になります。口に詩書して心は眾人という対句が痛烈で、身なりと中身の落差を一行で言い当てました。読書を教養ではなく判断の道具として扱う、この書らしい一段です。読む量ではなく、照らせるかどうかが問われています。
この章句が説くこと
見識基準読書実行名実
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