呻吟語 / 内篇・修身・那個か是れ人、那個か是れ我
六合是我底六合,那個是人?我是六合底我,那個是我?
書き下し
六合は是れ我が底の六合なり、那個か是れ人ならん。我は是れ六合底の我なり、那個か是れ我ならん。
現代語訳
天地四方は私の天地四方です。どこに他人がいるでしょうか。私は天地四方のうちの私です。どこに私がいるでしょうか。
解説
修身篇の冒頭に置かれた一段です。世界を自分のものと見れば他人は消え、自分を世界の一部と見れば自分が消える。同じ関係を裏表から言っただけですが、二つ並べると自他の線が溶けます。身を修めるという話の入口に、まず自分と他人の境目を問う段を置いたところに構成の意図があります。誰のために修めるのかという問いが、初めから外されているのです。
この章句が説くこと
自他六合境目修身一体
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・談道・那個か是れ天地、那個か是れ萬物天地人物は原來只だ是れ一個の身體、一個の心腸なり。同じければ、便ち是れ一家なり。異なれば、便ち是れ萬類なり。而今看著するに風雲雷雨は都て是れ我が胸中より發出し、虎豹蛇蠍は都て是れ我が身上より分かれ來たる。那個か是れ天地、那個か是れ萬物。
-
『呻吟語』内篇・存心・這の念頭は天地萬物の為か、我が為か舉世都て是れ我が心なり。這の我が心を去り了らば、便ち是れ四通八達、六合の内に一些の界限無し。我が心を去らんと要せば、須らく時時に省察すべし。這の念頭は是れ天地萬物の為か、是れ我が為か。
-
『呻吟語』内篇・性命・六合は原と是れ個の情世界六合は原と是れ個の情世界、故に萬物之を以て相苦樂す。而して至人・聖人は與らず。
-
『呻吟語』内篇・修身・一夫獲ざれば便ち是れ一處の瘡痍宇宙內の事は、皆な此の身に備はる。即ち一種未だ完せず、一毫未だ盡くさざれば、便ち是れ一分の破綻なり。天地間の生は、吾が體に非ざる莫し。即ち一夫獲ず、一物所を失へば、便ち是れ一處の瘡痍なり。
-
『呻吟語』内篇・修身・我只だ是れ個の我我が身は原と貧富貴賤得失榮辱の字無し。我は只だ是れ個の我なり。故に富貴貧賤得失榮辱は春風秋月の如く、自ら去り自ら來たりて、心と全く牽掛せず。我は到底只だ是れ個の我なり。夫れ是の如し、故に貧なる可く富なる可く、貴なる可く賤なる可く、得る可く失ふ可く、榮ゆ可く辱めらる可し。今人は惟だ富貴のみ是れ貪る。其の之を得るや必ず喜び、其の之を失ふや如何ぞ悲しまざらん。全く是れ假景に靠りて真身と作す、外物を分內と為す。
-
『呻吟語』内篇・修身・我の容れ難きなり乾坤盡く大なり、何處か我を容れ得ざらん。而るに到る處人の容るる所と為らざれば、則ち我の容れ難きなり。眇然たる一身にして世上難容の人と為り、乃ち人に號びて曰く、「人の我を容るる能はざるなり」と。吁、亦た愚なるかな。