呻吟語 / 内篇・談道・克己復禮と先立乎其大者
聖門工夫有兩途:「克己復禮」,是領惡以全好也,四夷靖則中國安;「先立乎其大者」,是正己而物正也,內順治則外威嚴。
新字:聖門工夫有両途:「克己復礼」,是領悪以全好也,四夷靖則中国安;「先立乎其大者」,是正己而物正也,内順治則外威厳。
書き下し
聖門の工夫に兩途有り。「己に克ちて禮に復る」は、是れ惡を領して以て好を全うするなり。四夷靖まれば則ち中國安し。「先づ其の大なる者を立つ」は、是れ己を正して物正しきなり。內順ひ治まれば則ち外威嚴なり。
現代語訳
聖人の門の工夫には二つの道があります。己に克って礼に返るというのは、悪いほうを押さえて良いほうを全うすることです。四方の異民族が静まれば中国は安らかになる、という筋です。まず大きなほうを立てるというのは、自分を正して物も正しくなることです。内が順って治まれば外に威厳が及ぶ、という筋です。
解説
孔子と孟子の二つの言葉を、外から押さえる道と内から立てる道に整理します。片方は境を静めて中を安んじる守りの筋、もう片方は中を治めて外に及ぼす攻めの筋です。どちらが正しいかを決めず、二つの道として並べたところが特徴で、自分の性質や場面に応じてどちらから入るかを選べる形になっています。どちらから入っても、行き着く先は同じだという含みもあります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
克己立志修養二途内外
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