呻吟語 / 内篇・談道・未發を中と謂ふの一語
「喜怒哀樂之未發謂之中」,自有《中庸》以來,無人看破此一語。此吾道與佛、老異處,最不可忽。
新字:「喜怒哀楽之未発謂之中」,自有《中庸》以来,無人看破此一語。此吾道与仏、老異処,最不可忽。
書き下し
「喜怒哀樂の未だ發せざる、之を中と謂ふ」は、《中庸》有りて以來、人の此の一語を看破する無し。此れ吾が道と佛・老と異なる處、最も忽せにす可からず。
現代語訳
喜怒哀楽がまだ表に出ていない状態を中と言う、というこの一句は、中庸ができて以来、誰も見破った人がいません。これこそ我々の道が仏や老と異なる所であり、決しておろそかにしてはなりません。
解説
仏道も心を静める点では同じですが、儒が言う中は感情を消すことではなく、まだ出ていない段でつり合いが取れていることです。出るべきときに出る力を残したままの静けさ。だから感情を無くす教えとは違うのだと呂坤は念を押します。誰も見破っていないという強い言い方に、ここを譲れない一線とする意識が表れています。静かさの中身を問い直させる、短くも重い一段です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
中庸未発感情儒仏均衡
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