呻吟語 / 内篇・談道・限り有るを以て窮まり無きと鬥ふ
世之欲惡無窮,人之精力有限,以有限與無窮鬥,則物之勝人,不啻千萬,奈之何不病且死也。
新字:世之欲悪無窮,人之精力有限,以有限与無窮鬥,則物之勝人,不啻千万,奈之何不病且死也。
書き下し
世の欲惡は窮まり無く、人の精力は限り有り。限り有るを以て窮まり無きと鬥はば、則ち物の人に勝つこと、啻に千萬のみならず。之を奈何ぞ病み且つ死せざらんや。
現代語訳
世の中の欲しいもの嫌なものは限りがなく、人の力には限りがあります。限りある力で限りないものと戦えば、物のほうが人に勝つこと千倍万倍では済みません。これでどうして病まずに、死なずにいられるでしょうか。
解説
荘子の、限りある生で限りない知を追えば危ういという一節に通じる段ですが、こちらは知ではなく欲に当てています。数の勝負である以上、初めから負けが決まっている。だから勝ち方は戦い方の工夫ではなく、土俵を降りることです。呂坤が自らを病人と呼んで書いたことを思うと、この一段の病み且つ死すという言い方には実感がこもっています。
この章句が説くこと
欲精力限界消耗撤退
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