呻吟語 / 内篇・談道・互ひに其の根と爲るのみ
周子《太極圖》第二圈子是分陰分陽,不是根陰根陽。世間沒有這般截然氣化,都是互為其根耳。
新字:周子《太極図》第二圏子是分陰分陽,不是根陰根陽。世間没有這般截然気化,都是互為其根耳。
書き下し
周子の《太極圖》の第二の圈子は是れ陰を分かち陽を分かつにして、是れ陰に根ざし陽に根ざすには非ず。世間に這般の截然たる氣化沒く、都て是れ互ひに其の根と爲るのみ。
現代語訳
周敦頤の太極図の第二の輪は、陰と陽を分けて描いたものであって、陰が根になり陽が根になるということを描いたものではありません。世の中にそんなにきれいに切り分かれた気の変化などなく、どれも互いに相手の根になっているだけです。
解説
図の読み方をめぐる短い議論ですが、言いたいことは図の外にあります。世の中にきれいに切れた変化などない、というのが結論です。陰と陽は順番に並ぶのではなく、互いに相手の根になっている。整理された図を覚えた人ほど、現実をその図に合わせて切ろうとします。図は理解の助けであって、現実の設計図ではないという戒めとして読めます。
この章句が説くこと
陰陽太極図式現実相互
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