呻吟語 / 内篇・談道・邪を闢くに其の情を得ざれば、則ち邪愈〻肆なり
儒者之末流與異端之末流何異?似不可以相誚也。故明於醫,可以攻病人之標本;精於儒,可以中邪說之膏盲。闢邪不得其情,則邪愈肆;攻病不對其症,則病癒劇。何者?授之以話柄而借之以反攻,自救之策也。
新字:儒者之末流与異端之末流何異?似不可以相誚也。故明於医,可以攻病人之標本;精於儒,可以中邪説之膏盲。闢邪不得其情,則邪愈肆;攻病不対其症,則病癒劇。何者?授之以話柄而借之以反攻,自救之策也。
書き下し
儒者の末流と異端の末流と何ぞ異ならん。相誚る可からざるに似たり。故に醫に明らかなれば、病人の標本を攻む可し。儒に精しければ、邪說の膏盲に中つ可し。邪を闢くに其の情を得ざれば、則ち邪愈〻肆なり。病を攻むるに其の症に對せざれば、則ち病癒〻劇し。何者ぞ。之に授くるに話柄を以てして之に借すに反攻を以てす、自ら救ふの策なり。
現代語訳
儒者の末流と異端の末流と、何が違うでしょうか。互いに謗り合えないように見えます。ですから医に明るければ病人の根と枝を攻められ、儒に精しければ邪説の急所を突けます。邪を退けるのにその実情をつかめなければ、邪はますますほしいままになります。病を攻めるのにその症状に合わなければ、病はますますひどくなります。なぜでしょうか。相手に話の種を与え、反撃の材料を貸すことになるからです。相手にとっては自分を救う策になるのです。
解説
異端批判の失敗が扱われます。まず儒者の末流も異端の末流も変わらない、と自陣に厳しく始まります。そして下手な批判の害が示される。実情をつかまない攻撃は、相手に話の種と反撃の材料を与え、かえって相手を救ってしまう、と。医者が症状に合わない薬を出せば病が悪化するのと同じだ、と。批判するなら相手を正確に知れ、という一段です。
この章句が説くこと
異端末流批判実情逆効果
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