呻吟語 / 内篇・談道・諸を道に協せて協せば、千聖萬世吻合せざる無し
漢唐而下,議論駁而至理雜,吾師宋儒。宋儒求以明道而多穿鑿附會之談,失平正通達之旨,吾師先聖之言。先聖之言煨於秦火、雜於百家,莠苗朱紫,使後學尊信之而不敢異同,吾師道。苟協諸道而協,則千聖萬世無不吻合,何則?道無二也。
新字:漢唐而下,議論駁而至理雑,吾師宋儒。宋儒求以明道而多穿鑿附会之談,失平正通達之旨,吾師先聖之言。先聖之言煨於秦火、雑於百家,莠苗朱紫,使後学尊信之而不敢異同,吾師道。苟協諸道而協,則千聖万世無不吻合,何則?道無二也。
書き下し
漢唐より下は、議論駁して至理雜なり、吾は宋儒を師とす。宋儒は以て道を明らかにせんことを求めて穿鑿附會の談多く、平正通達の旨を失ふ、吾は先聖の言を師とす。先聖の言は秦火に煨せられ、百家に雜へられ、莠苗朱紫にして、後學をして之を尊信して敢へて異同せざらしむ、吾は道を師とす。苟くも諸を道に協せて協せば、則ち千聖萬世吻合せざる無し。何となれば、道に二無ければなり。
現代語訳
漢唐より後は議論が入り混じって至極の理が雑になったので、私は宋の儒者を師とします。宋の儒者は道を明らかにしようとしてこじつけの説が多く、平正で通った趣旨を失ったので、私は先の聖人の言葉を師とします。先の聖人の言葉は秦の焚書に焼かれ、諸家に混ぜられ、雑草と苗、朱と紫のように紛れて、後の学ぶ者はそれを信じてあえて異を唱えられません。だから私は道を師とします。かりにも道に照らして合えば、千人の聖人も万世も一致しないことはありません。なぜなら道に二つはないからです。
解説
師とする対象が、三段で遡られていきます。漢唐の議論は雑だから宋儒へ、宋儒はこじつけが多いから先聖の言葉へ、先聖の言葉も焼かれ混ざっているから道そのものへ。権威を一つずつ外して、最後に残るのが道です。そして判定の基準が示されます。道に照らして合えば、千の聖人も万世も一致する。人ではなく理を拠り所にする宣言になっています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
師遡行宋儒先聖道
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『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
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『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
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