呻吟語 / 内篇・談道・中を執りて以て天地萬物の極を立つ
「中」之一字,不但道理當然,雖氣數離了中,亦成不得寒暑;災祥失中,則萬物殃;飲食起居失中,則一身病。故四時各順其序,五臟各得其職,此之謂中。差分毫便有分毫驗應,是以聖人執中以立天地萬物之極。
新字:「中」之一字,不但道理当然,雖気数離了中,亦成不得寒暑;災祥失中,則万物殃;飲食起居失中,則一身病。故四時各順其序,五臓各得其職,此之謂中。差分毫便有分毫験応,是以聖人執中以立天地万物之極。
書き下し
「中」の一字は、但だ道理の當然のみならず、氣數と雖も中を離るれば、亦た寒暑を成し得ず。災祥中を失へば、則ち萬物殃す。飲食起居中を失へば、則ち一身病む。故に四時各〻其の序に順ひ、五臟各〻其の職を得る、此れを之れ中と謂ふ。分毫を差へば便ち分毫の驗應有り。是を以て聖人は中を執りて以て天地萬物の極を立つ。
現代語訳
中という一字は、道理として当然であるだけではありません。めぐり合わせでさえ中を離れれば、寒暑さえ成り立ちません。災いと吉兆が中を失えば万物が損なわれ、飲食や起居が中を失えば一身が病みます。ですから四季がそれぞれの順に従い、五臓がそれぞれの務めを果たす。これを中と言います。わずかでも違えば、わずかなぶんの結果が現れます。ですから聖人は中を執って天地万物の極みを立てるのです。
解説
中が道徳から自然へ広げられます。寒暑も災祥も、飲食や起居も、中を離れれば成り立たない。四季の順序と五臓の働きが中の例として挙げられ、道徳の話ではなく世界の成り立ちの話になります。そして精度が示される。わずかに違えばわずかなぶんの結果が出る、と。中がぼんやりした中庸ではなく、目盛りのある一点だと分かります。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
中気数四時五臓精度
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・談道・中の一字は、南面獨尊にして道中底の天子「中」の一字は、是れ上に天無く、下に地無く、四方に東西南北無し。此れは是れ南面獨尊にして道中底の天子なり。仁義禮智信は都て是れ東西に侍立し、百行萬善は都て是れ北面して成を受くる者なり。意はざりき宇宙間に此の一妙字有らんとは。這の一個有り了らば、別個は都て勾銷す可し。五常・百行・萬善も但だ這個を少くせば、都て是れ一家の貨のみ、更に甚麼の道理をか成さん。
-
『呻吟語』内篇・應務・禮義の中を識る學者の事に處し人に處するは、先づ個の禮義の中を識るを要す。正に這個の中正の處は、之を析つに毫釐の差無く、之に處するに過不及の謬無きを要す。便ち是れ聖人なり。
-
『呻吟語』内篇・應務・一物に一物の合有り諸を其の上に覆ひて廣からず狹からず、其の隙を旁視するに有るが若く無きが若し。一物に一物の合有り、相ひ苦窳ならず。萬物各おの其の合有り、相ひ假借せず。此れを之れ天則と謂ひ、此れを之れ大中と謂ひ、此れを之れ天下萬事萬物各おの其の所を得と謂ふ。而して聖人の從容として中る所以、賢者の精一もて求むる所以、眾人の心に醉ひ意に夢みて、行を錯り施を亂る所以なり。
-
『呻吟語』内篇・談道・中は道脈の宗、敬は聖學の訣中は、是れ千古道脈の宗なり。敬は、是れ聖學一字の訣なり。
-
『弁名』中庸和衷中は過不及無きの謂なり。或いは以て道の名と為し、或いは以て徳の名と為し、或いは以て性の名と為す。「舜其の中を民に用ふ」「湯中を民に建つ」の如き、是れ道の名なり。其の解は君牙に見ゆ。「民心中罔し、惟れ爾の中」と曰ふ。蓋し天下の理は過不及無きを以て其の至りと為す。故に人は賢知と無く愚不肖と無く、惟だ中を是れ求む。生民より以来然りと為す。然れども人其の性を殊にし、見る所性を以て殊なり。人其の居を殊にし、見る所居を以て殊なり。而して中定まらず。天下の乱るる所以なり。是に於いて先王中を建てて以て極と為し、天下の民をして皆此に由りて以て行はしむ。故に極或いは中と訓ず。是れ中なる者は聖人の独り知る所にして、衆人の能く知る所に非ざるなり。凡そ先王の建つる所、礼楽徳義、百爾の制度、是れ皆中なり、是れ皆極なり。
-
『近思録』巻1 道体中なる者は天下の大本なり。天地の間、亭亭当当として、直上直下の正理なり。出づれば則ち是ならず。惟だ敬して失ふ無きこと最も尽くせり。伊川先生曰く、公なれば則ち一、私なれば則ち万殊なり。「人心の同じからざること面の如し」とは只だ是れ私心なり。凡そ物に本末有り、本末を分かちて両断の事と為すべからず。「灑掃応対」は是れ其の然り、必ず然る所以有り。楊子は一毛を抜くも為さず、墨子は又頂を摩して踵に放(いた)るも之を為す。此れ皆是れ中を得ず。子莫の中を執るが如きに至りては、此の二者の中を執らんと欲す。知らず怎麽(いかん)ぞ執り得ん。識り得れば則ち事事物物の上に皆天然に箇の中の那の上に在る有り、人の安排を待たざるなり。安排著すれば則ち中ならず。時中は如何と問ふ。曰く、中の字最も識り難し、須らく是れ黙識心通すべし。且く試みに一庁を言へば、則ち中央を中と為す。一家なれば則ち庁中は中に非ずして堂を中と為す。一国を言へば則ち堂は中に非ずして国の中を中と為す。此の類を推せば見るべし。「三たび其の門を過ぎて入らず」の如きは禹稷の世に在りては中と為す、若し「陋巷に居る」は則ち中に非ざるなり。陋巷に居るは顔子の時に在りては中と為す、若し「三たび其の門を過ぎて入らず」は、則ち中に非ざるなり。無妄之を誠と謂ひ、欺かざるは其の次なり。冲漠として朕無く、万象森然として已に具はる。未だ応ぜざるも是れ先ならず、已に応ずるも是れ後ならず。百尺の木の、根本より枝葉に至るまで、皆是れ一貫なるが如し。上面の一段の事、形無く兆無く、却って人の旋(にはか)に安排して、引き入れ来たりて塗轍に入らしむるを待つと道ふべからず。既に是れ塗轍なれば、却って只だ是れ一箇の塗轍なり。近く諸を身に取れば、百理皆具はる。屈伸往来の義は、只だ鼻息の間に於て之を見る。屈伸往来は只だ是れ理なり、必ずしも既に屈するの気を将て、復た方に伸びんとするの気と為さず。生生の理、自然に息まず。