呻吟語 / 内篇・談道・易は個の活き底、學者は死せる底と看做す
《易》道,渾身都是,滿眼都是,盈六合都是。三百八四十爻,聖人特拈起三百八十四事來做題目,使千聖作《易》,人人另有三百八十四說,都外不了那陰陽道理。後之學者求易於《易》,穿鑿附會以求通,不知易是個活底,學者看做死底;易是個無方體底,學者看做有定象底。故論簡要,乾坤二卦已多了;論窮盡,雖萬卷書說不盡《易》的道理,何止三百八十四爻?
新字:《易》道,渾身都是,満眼都是,盈六合都是。三百八四十爻,聖人特拈起三百八十四事来做題目,使千聖作《易》,人人另有三百八十四説,都外不了那陰陽道理。後之学者求易於《易》,穿鑿附会以求通,不知易是個活底,学者看做死底;易是個無方体底,学者看做有定象底。故論簡要,乾坤二卦已多了;論窮尽,雖万巻書説不尽《易》的道理,何止三百八十四爻?
書き下し
『易』の道は、渾身都て是れ、滿眼都て是れ、六合に盈ちて都て是れなり。三百八十四爻は、聖人特に三百八十四事を拈起して題目と做せるのみ。千聖をして『易』を作らしめば、人人別に三百八十四說有らん。都て那の陰陽の道理を外れ了らず。後の學者は易を『易』に求め、穿鑿附會して以て通ぜんことを求む。知らず、易は是れ個の活き底なるを、學者は死せる底と看做す。易は是れ個の方體無き底なるを、學者は定象有る底と看做す。故に簡要を論ずれば、乾坤の二卦已に多かり。窮盡を論ずれば、萬卷の書と雖も『易』の道理を說き盡くさず、何ぞ止だ三百八十四爻のみならんや。
現代語訳
易の道は、全身がそれであり、目に満ちるものがそれであり、天地四方に満ちてすべてがそれです。三百八十四の爻は、聖人がとくに三百八十四の事を取り上げて題目としただけです。千人の聖人に易を作らせれば、それぞれ別の三百八十四の説があるでしょう。どれも陰陽の道理を外れません。後の学ぶ者は易を易の書物の中に求め、こじつけて通じさせようとします。知らないのです、易は生きたものなのに、学ぶ者は死んだものと見なしている。易は決まった形がないのに、学ぶ者は定まった象があると見なしている。ですから簡潔さで言えば乾と坤の二卦でも多すぎます。窮め尽くすことで言えば、万巻の書でも易の道理は説き尽くせません。どうして三百八十四の爻だけでしょうか。
解説

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『童子問』卷下易は以て陰陽を道ふ。昔聖人卦爻を画して、以て陰陽消長の変を尽くす。老ゆれば則ち変じ、満つれば必ず損ず。故に盈満を避けて退損に処る者は、易の教なり。孔子曰く、我に数年を加へ、五十にして以て易を学ばば、以て大過無かるべしと。是れなり。六十四卦、三百八十四爻、其の義多しと雖も、然れども夫子の大過無かるべしの一言、以て之を蔽ふに足れり。論語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固なり。其の不孫ならんよりは寧ろ固なれと。孝経に曰く、節を制し度を謹めば、満ちて溢れず、高くして危からずと。皆此の意に非ざる莫し。夫れ陰陽の消長は、変遷方無く、進退恒無く、一を執りて守り難し。故に論語に曰く、与に共に立つべし、未だ与に権るべからずと。孟子曰く、中を執りて権無きは、猶一を執るがごときなりと。亦皆易の理に非ざる莫し。古者易学、自ら二家有り。彖・象の二篇は儒家の易なり。文言も亦然り。蓋し専ら彖の義を述べて、皆陰陽消長の理を論じて、之を人事に推し、一も卜筮に及ぶ者無し。繋辞・説卦等の篇は、専ら卜筮を主として言ふ。欧陽子以て筮師の書と為す、是れなり。蓋し義の卜筮と相反す。義を言へば則ち卜策を言ふことを須ゐず。卜筮に従へば則ち義を捨てざること能はず。故に論孟の二書、卜筮を言はざる者は、此れを以てなり。程伝は繋辞に従ふと雖も、其の実は彖象の理と相合す。当に之に従ふべし。
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『近思録』巻3 致知先生云ふ、亦た妨げず。只だ如何に用ふるかを看よ。儲弐に当たれば則ち儲弐と做して使ふ。九四は君に近し、便ち儲弐と作すも、亦た害あらず。但だ一に拘らざらんことを要す。若し一事に執すれば、則ち三百八十四爻は、只だ三百八十四件の事と作し得て便ち休み了らん。易を看るには且く時を知らんことを要す。凡そ六爻は人人用有り。聖人には自ら聖人の用有り、賢人には自ら賢人の用有り。衆人には自ら衆人の用有り、学者には自ら学者の用有り。君には君の用有り、臣には臣の用有り。通ぜざる所無し。因りて坤卦は是れ臣の事なり、人君に用ふる処有りや否やを問ふ。先生曰く、是れ何ぞ用無からん。「徳を厚くして物を載す」の如き、人君安んぞ用ひざるべけんや。易中は只だ是れ反復往来上下を言ふ。易を作るは天地幽明より、昆虫草木の微物に至るまで、合はざる無し。今時の人の易を看るは、皆易の是れ何物なるかを識り得ず。只だ上に就きて穿鑿す。若し念じ得ること熟せざれば、上に与(ため)に一徳を添ふるも、亦た多きを覚えず。上に就きて一徳を減ずるも、亦た少なきを覚えず。譬へば此の兀子を識らざるが如し、若し一隻の脚を減ずるも、亦た是れ少なきを知らず。若し一隻を添ふるも、亦た是れ多きを知らず。若し識れば則ち自ら添減し得ざるなり。游定夫伊川に「陰陽測られざる之を神と謂ふ」を問ふ。伊川曰く、賢は是れ疑ひ了りて問ふか、是れ難しき底を揀びて問ふか。伊川易伝を以て門人に示して曰く、只だ七分を説き得たり、後人更に須らく自ら体究すべし。伊川先生春秋伝の序に曰く、天の民を生ずる、必ず出類の才有りて、起ちて之に君長たり。之を治めて争奪息み、之を導きて生養遂げ、之を教へて倫理明らかなり。然る後に人道立ち、天道成り、地道平らかなり。二帝よりして上、聖賢世々出づ。時に随ひて作す有り。風気の宜しきに順ひ、天に先だちて以て人を開かず、各時に因りて政を立つ。
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『弁名』極蓋し伏羲仰ぎて観、俯して察し、以て夫の適くとして陰陽剛柔に非ざるは無きを見る。河図の数は五十有五、夫の適くとして奇偶に非ざるは無きを見る。六十四卦、三百八十四爻、豈に它ならんや。以て夫の陰陽剛柔の中に、又剛柔陰陽有りて、窮尽有ること無きを見る、故に之を画するのみ。故に唯だ陰陽剛柔は、易の由りて出づる所なり。易を読む者も、亦た必ず此を以て準拠と為して、以て其の義を得べきなり。是に由りて一画を画する者は二、是れ両儀なり。又二画を画する者は四、是れ四象なり。又三画を画する者は八、是れ八卦なり。老子も亦た易を学ぶ者なり、故に多く謙損卑退の道を説く。其の所謂「一は二を生じ、二は三を生ず」とは、亦た是の義なり。其の書を解する者乃ち曰く、「道、天地を生ず、是れ一は二を生ずるなり。天地人を生じて三才立つ、是れ二は三を生ずるなり」と。夫れ道天地を生ずとは、一は二を生ずと言ふを得ん。天地人を生ずとは、豈に二は三を生ずと言ふを得んや。亦た知らずして妄りに説くのみ。
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『弁名』天命帝鬼神是れ鬼神を言ふと雖も、然れども易にも亦た之有り。大伝に又た曰く、「乾は陽物なり。坤は陰物なり」と。六十二卦、孰か陰陽に非ざらん。聖人特に之が物を立てて乾坤と曰ふ。天地位して造化行はれ、乾坤立ちて易道行はる。乾坤毀るれば、則ち以て易を見る無し。鬼神の道も亦た然り。故に伝に曰く、「鬼神を明命して、以て黔首の則と為す」と。聖人の其の物を立つるなり。是れ教への術なり。故に易を知れば則ち鬼神の情状を知るなり。聖人能く鬼神の情状を知る、故に幽明生死の礼を立つ。是れ又た仰ぎて以て天文を観る以下、其の義の相因る所以の者のみ。京房の易に帰魂・遊魂の卦有り。是れ游魂変を為すも、亦た易に其の義有りて、古来相伝ふるなり。後儒は先王の礼と易とに就きて以て鬼神の情状を知るを求めずして、直ちに諸を鬼神に求む。豈に能く之を知らんや。多に其の量を知らざるを見るのみ。
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