呻吟語 / 内篇・談道・這の己は便ち是れ人欲なり
或問:「聖人有可克之己否?」曰:「惟堯、舜、文王、周、孔無己可克,其餘聖人都有。己任是伊尹底,己和是柳下惠底,己清是伯夷底,己志向偏於那一邊便是己。己者,我也,不能忘我而任意見也,狃於氣質之偏而離中也。這己便是人欲,勝不得這己,都不成個剛者。
新字:或問:「聖人有可克之己否?」曰:「惟堯、舜、文王、周、孔無己可克,其余聖人都有。己任是伊尹底,己和是柳下恵底,己清是伯夷底,己志向偏於那一辺便是己。己者,我也,不能忘我而任意見也,狃於気質之偏而離中也。這己便是人欲,勝不得這己,都不成個剛者。
書き下し
或ひと問ふ、「聖人に克つ可きの己有りや否や」と。曰く、「惟だ堯・舜・文王・周・孔のみ己の克つ可き無し、其の餘の聖人は都て有り。己の任は是れ伊尹底、己の和は是れ柳下惠底、己の清は是れ伯夷底なり。己の志向が那の一邊に偏すれば便ち是れ己なり。己とは、我なり。我を忘るる能はずして意見に任ずるなり、氣質の偏に狃れて中を離るるなり。這の己は便ち是れ人欲なり。這の己に勝ち得ずんば、都て個の剛者を成さず」と。
現代語訳
ある人が問いました。聖人にも克つべき己があるでしょうか。答えます。ただ堯、舜、文王、周公、孔子だけが克つべき己を持ちません。その他の聖人にはみなあります。任という己は伊尹のもの、和という己は柳下恵のもの、清という己は伯夷のものです。自分の志向がどれか一方に偏れば、それが己です。己とは我です。我を忘れられずに自分の意見に任せることであり、気質の偏りに慣れて中を離れることです。この己こそ人の欲です。この己に勝てなければ、剛の者にはなれません。
解説
克己の己が、悪い欲ではなく偏りだと定義されます。伊尹の任、柳下恵の和、伯夷の清。どれも徳ですが、一方に偏っている点が己だ、と。長所こそ克つべき己だという指摘が鋭い。そして己は我であり、意見に任せること、気質の偏りに慣れて中を離れることだと説明されます。自分の得意なやり方に頼ることが、そのまま克つべき対象になります。
この章句が説くこと
克己偏伊尹中長所
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