呻吟語 / 内篇・倫理・貴ぶ所は親の心を心とするのみ
父在居母喪,母在居父喪,以從生者之命為重。故孝子不以死者憂生者,不以小節傷大體,不泥經而廢權,不徇名而害實,不全我而傷親。所貴乎孝子者,心親之心而已。
新字:父在居母喪,母在居父喪,以従生者之命為重。故孝子不以死者憂生者,不以小節傷大体,不泥経而廃権,不徇名而害実,不全我而傷親。所貴乎孝子者,心親之心而已。
書き下し
父在して母の喪に居り、母在して父の喪に居るは、生者の命に從ふを以て重しと為す。故に孝子は死者を以て生者を憂へしめず、小節を以て大體を傷らず、經に泥みて權を廢せず、名に徇ひて實を害せず、我を全くして親を傷らず。孝子に貴ぶ所の者は、親の心を心とするのみ。
現代語訳
父が生きていて母の喪に服し、母が生きていて父の喪に服する場合は、生きている側の言いつけに従うことを重んじます。ですから孝行な子は、亡くなった者のために生きている者を憂えさせず、小さな節目のために大きな筋を損なわず、経典にこだわって臨機の判断を捨てず、名に従って実を害さず、自分を全うして親を傷つけません。孝行な子に貴ばれるのは、ただ親の心を自分の心とすることだけです。
解説
喪の作法が、生者を優先する原則で整理されます。亡き者のために生きている者を憂えさせない、と。そして五つの戒めが並びます。小節で大体を損なうな、経典にこだわって臨機を捨てるな、名のために実を害するな、自分を守って親を傷つけるな。どれも形式が実質を押しつぶす場面を想定しています。結論は一つで、親の心を自分の心とすること。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
喪生者小節権実質
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