呻吟語 / 内篇・存心・是の怒りは、始めて發して節に中たるか
予嘗怒一卒,欲重治之。召之,久不至,減予怒之半。又久而後至,詬之而止。因自笑曰:「是怒也,始發而中節邪?中減而中節邪?終止而中節邪?」惟聖人之怒,初發時便恰好,終始只一個念頭不變。
新字:予嘗怒一卒,欲重治之。召之,久不至,減予怒之半。又久而後至,詬之而止。因自笑曰:「是怒也,始発而中節邪?中減而中節邪?終止而中節邪?」惟聖人之怒,初発時便恰好,終始只一個念頭不変。
書き下し
予嘗て一卒を怒り、之を重く治せんと欲す。之を召すに、久しく至らず、予の怒りの半ばを減ず。又久しくして後に至る、之を詬りて止む。因りて自ら笑ひて曰く、「是の怒りは、始めて發して節に中たるか。中ごろ減じて節に中たるか。終に止みて節に中たるか」と。惟だ聖人の怒りのみ、初め發する時便ち恰好し、終始只だ一個の念頭變ぜず。
現代語訳
私はかつて一人の兵を怒り、重く罰しようとしました。呼びにやったところ、なかなか来ないので、怒りは半分に減りました。さらに長く待ってから来たので、叱っただけで済ませました。そこで自分を笑って言いました。この怒りは、起こったときが節度に適っていたのか。途中で減ったときが適っていたのか。終わってやんだときが適っていたのか、と。ただ聖人の怒りだけが、起こった瞬間からちょうどよく、始めから終わりまで一つの思いが変わりません。
解説
自分の失敗談として怒りが観察されます。待たされるうちに怒りが半分になり、さらに待って叱るだけで済んだ。時間が経てば収まるという、誰にでもある経験です。しかし呂坤はそこで問います。では正しかったのはどの時点の怒りだったのか、と。時間で変わるものは節度ではないという気づきで、聖人の怒りは最初からちょうどよい、と結ばれます。
この章句が説くこと
怒中節時間変動観察
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