呻吟語 / 内篇・存心・得の一字、最も此の心を壞る
「得」之一字,最壞此心。不但鄙夫患得,年老戒得為不可。只明其道而計功,有事而正心,先事而動得心,先難而動獲心,便是雜霸雜夷。一念不極其純,萬善不造其極。此作聖者之大戒也。
新字:「得」之一字,最壊此心。不但鄙夫患得,年老戒得為不可。只明其道而計功,有事而正心,先事而動得心,先難而動獲心,便是雑覇雑夷。一念不極其純,万善不造其極。此作聖者之大戒也。
書き下し
「得」の一字、最も此の心を壞る。但だ鄙夫の得るを患ふるのみならず、年老いて得るを戒むるも不可と為す。只だ其の道を明らかにして功を計り、事有りて心を正し、事に先だちて得る心を動かし、難きに先だちて獲る心を動かせば、便ち是れ霸を雜へ夷を雜ふるなり。一念其の純を極めざれば、萬善其の極を造さず。此れ聖を作す者の大戒なり。
現代語訳
得るという一字が、最もこの心を壊します。心の卑しい者が得ることを心配するだけでなく、年老いて得ることを戒めよと言うのも十分ではありません。道を明らかにしながら功を計算し、事に当たって心を正しながら、事に先んじて得る心を動かし、困難の前に獲る心を動かすなら、それは覇道を混ぜ夷を混ぜたようなものです。一つの思いが純粋さを極めなければ、万の善もその極みに至りません。これこそ聖を目指す者の大きな戒めです。
解説
得るという字が、心を壊す第一のものとされます。論語の、鄙夫は得るを患う、と、血気衰えて得るを戒む、という二句が引かれ、どちらでも足りないと言われるのが厳しいところです。道を明らかにしながら同時に功を計算するだけで、もう純粋ではない、と。動機に少しでも得の計算が混じれば、善は極みに至らないという、動機の純度を問う一段です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
得動機純度計功大戒
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