呻吟語 / 内篇・存心・之を夢に食らふに譬ふ、豈に能く飽かんや
常使精神在心目間,便有主而不眩。於客感之交,只一昏昏,便是胡亂應酬。豈無偶合?終非心上經歷過,竟無長進,譬之夢食,豈能飽哉?
新字:常使精神在心目間,便有主而不眩。於客感之交,只一昏昏,便是胡乱応酬。豈無偶合?終非心上経歴過,竟無長進,譬之夢食,豈能飽哉?
書き下し
常に精神をして心目の間に在らしむれば、便ち主有りて眩まず。客感の交はるに於いて、只だ一たび昏昏たれば、便ち是れ胡亂に應酬す。豈に偶合無からんや。終に心上に經歷し過ぎたるに非ざれば、竟に長進無し。之を夢に食らふに譬ふ、豈に能く飽かんや。
現代語訳
常に精神を心と目のあいだに置いておけば、主がしっかりしていて目がくらみません。外から感じるものと行き合ったとき、ひとたびぼんやりすれば、でたらめに応対することになります。まぐれで当たることもあるでしょう。しかし心の上を通り過ぎていないものは、ついに成長になりません。夢の中で食べるようなもので、どうして満腹になるでしょうか。
解説
まぐれ当たりが成長にならない理由が説明されます。ぼんやりしたまま対応して結果が良かったとしても、それは心を通っていないから何も残らない、と。そして例えが鮮やかです。夢の中で食べても腹はふくれない。成果が出たかどうかではなく、自分の中を通ったかどうかで経験を測る見方で、うまくいった仕事の振り返りが要る理由にもなっています。
この章句が説くこと
精神偶合経験成長夢食
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