呻吟語 / 内篇・存心・心の放つと放たざるとは、邪正の上に在り
心放不放,要在邪正上說,不在出入上說。且如高臥山林遊心廊廟,身處衰世夢想唐虞,游子思親,貞婦懷夫,這是個放心否?若不論邪正,只較出入,卻是禪定之學。
新字:心放不放,要在邪正上説,不在出入上説。且如高臥山林遊心廊廟,身処衰世夢想唐虞,游子思親,貞婦懐夫,這是個放心否?若不論邪正,只較出入,却是禅定之学。
書き下し
心の放つと放たざるとは、邪正の上に在りて說くを要す、出入の上に在りて說かず。且つ高く山林に臥して心を廊廟に遊ばしめ、身は衰世に處りて唐虞を夢想し、游子は親を思ひ、貞婦は夫を懷ふがごとき、這れ是れ個の放心なりや否や。若し邪正を論ぜず、只だ出入を較ぶれば、卻つて是れ禪定の學なり。
現代語訳
心が放れているかいないかは、邪か正かで論じるべきであって、出ているか内にあるかで論じるものではありません。たとえば山林に高く臥しながら心は朝廷に遊び、身は衰えた世にありながら堯舜の世を夢想し、旅人が親を思い、貞淑な妻が夫を慕う。これは放れた心でしょうか。もし邪か正かを論じず、ただ出ているか内にあるかだけを比べるなら、それはかえって禅の定に入る学問になってしまいます。
解説
放心の意味が問い直されます。心が外に出ていること自体は問題ではない、と。例として挙がるのはどれも美しい思いです。隠者が世を思い、旅人が親を思い、妻が夫を慕う。これらを放心と呼ぶのかと問い返されると、出入りを基準にする考えが崩れます。そして一言で片づけられる。出入りだけを見るなら、それは禅の座り方の話であって儒の学ではない、と。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
放心邪正出入基準禅定
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