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呻吟語 / 内篇・性命・至人に夢無く、愚人に夢無し

或問:「人將死而見鬼神,真耶?幻耶?」曰:「人寤則為真見,夢則為妄見。魂游而不附體,故隨所之而見物,此外妄也。神與心離合而不安定,故隨所交而成景,此內妄也。故至人無夢,愚人無夢,無妄念也。人之將死,如夢然,魂飛揚而神亂於目,氣浮散而邪客於心,故所見皆妄,非真有也。或有將死而見人拘繫者,尤妄也。異端之語,入人骨髓,將死而懼,故常若有見。若死必有召之者,則牛羊蚊蟻之死,果亦有召之者耶?大抵草木之生枯、土石之凝散、人與眾動之死生始終有無,只是一理,更無他說。萬一有之,亦怪異也。」

新字:或問:「人将死而見鬼神,真耶?幻耶?」曰:「人寤則為真見,夢則為妄見。魂游而不附体,故随所之而見物,此外妄也。神与心離合而不安定,故随所交而成景,此内妄也。故至人無夢,愚人無夢,無妄念也。人之将死,如夢然,魂飛揚而神乱於目,気浮散而邪客於心,故所見皆妄,非真有也。或有将死而見人拘繋者,尤妄也。異端之語,入人骨髄,将死而懼,故常若有見。若死必有召之者,則牛羊蚊蟻之死,果亦有召之者耶?大抵草木之生枯、土石之凝散、人与眾動之死生始終有無,只是一理,更無他説。万一有之,亦怪異也。」

書き下し

或ひと問ふ、「人將に死せんとして鬼神を見るは、真か、幻か」と。曰く、「人寤むれば則ち真見と為し、夢むれば則ち妄見と為す。魂游びて體に附かず、故に之く所に隨ひて物を見る、此れ外の妄なり。神と心と離合して安定せず、故に交はる所に隨ひて景を成す、此れ内の妄なり。故に至人に夢無く、愚人に夢無し、妄念無ければなり。人の將に死せんとするは、夢のごとく然り。魂飛揚して神目に亂れ、氣浮散して邪心に客たり、故に見る所は皆妄にして、真に有るに非ざるなり。或いは將に死せんとして人の拘繫せらるるを見る者有るは、尤も妄なり。異端の語、人の骨髓に入り、將に死せんとして懼る、故に常に見る有るがごとし。若し死に必ず之を召す者有らば、則ち牛羊蚊蟻の死も、果たして亦た之を召す者有らんや。大抵草木の生枯、土石の凝散、人と眾動との死生始終の有無は、只だ是れ一理のみ、更に他說無し。萬一之有るも、亦た怪異なり」と。

現代語訳

ある人が問いました。人が死のうとするときに鬼神を見るのは、本当でしょうか、幻でしょうか。答えて言います。人は目覚めていれば真の見え方をし、夢を見れば妄りな見え方をする。魂が遊んで体に付かないから、行く先々で物を見る。これが外の妄りです。精神と心が離れたり合ったりして安定しないから、触れるものに応じて情景ができる。これが内の妄りです。ですから至った人には夢がなく、愚かな人にも夢がない。どちらも妄りな思いがないからです。人が死のうとするときは夢のようなもので、魂が飛び散って精神は目の前で乱れ、気が浮き散って邪なものが心に宿る。だから見えるものはみな妄りであって、本当にあるのではありません。死ぬ間際に人が捕らえられるのを見る者があるのは、なおさら妄りです。異端の教えが骨の髄まで染み込み、死ぬ間際に恐れる、だから常に何かが見えるようなのです。もし死に必ず迎えに来る者があるなら、牛や羊や蚊や蟻の死にも迎えに来る者があるのでしょうか。おおよそ草木の生き枯れ、土石の固まり散り、人やあらゆる生き物の生死や始め終わりや有る無しは、ただ一つの理であって、ほかに説はありません。万一そうしたものがあったとしても、それは怪異にすぎません。

解説

臨終の幻覚が真正面から扱われます。呂坤の答えは一貫して自然の理で、魂が体から離れかけているから見えるだけだ、と。夢の説明をそのまま死の説明に使っています。面白いのは至人と愚人がどちらも夢を見ないと並べられるところで、迷いが無いことでは両端が一致するという見方です。そして決め手が置かれます。もし迎えが来るなら牛や蚊の死にも迎えが来るのか、と。

この章句が説くこと

臨終幻覚自然迷信一理

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