列子 / 周穆王篇
子列子曰:「神遇爲夢、形接爲事。故晝想夜夢、神形所遇。故神凝者想夢自消。信覺不語、信夢不達、物化之往來者也。古之真人、其覺自忘、其寢不夢、幾虛語哉?」
新字:子列子曰:「神遇為夢、形接為事。故昼想夜夢、神形所遇。故神凝者想夢自消。信覚不語、信夢不達、物化之往来者也。古之真人、其覚自忘、其寝不夢、幾虚語哉?」
書き下し
子列子曰く、神の遇うを夢と爲し、形の接するを事と爲す。故に晝に想い夜に夢むるは、神形の遇う所なり。故に神凝る者は想夢自ら消ゆ。覺を信ずる者は語らず、夢を信ずる者は達せず、物化の往來する者なり。古の真人は、其の覺むるや自ら忘れ、其の寢ぬるや夢みず、と。幾ぞ虛語ならんや。
現代語訳
列子は言った。「精神が何かと出会うのが夢であり、体が何かと接するのが事である。だから昼に思い、夜に夢を見るのは、精神と体が出会った結果である。だから精神が凝り集まっている者は、思いも夢もおのずと消える。目覚めているときのことを信じきっている者は語らず、夢を信じきっている者は分かっていない。どちらも物の移り変わりが行き来しているにすぎない。昔の真人は、目覚めているときには自分を忘れ、眠っているときには夢を見なかったという」。それがどうして空言であろうか。
解説
「神凝る者は想夢自ら消ゆ」。精神が一つに集まっている人は、余計な思いも夢も消えるという。夢を減らそうとするのではなく、集まれば結果として消えるという順序です。そして目覚めている側を信じきる人も、夢の側を信じきる人も、どちらも同じだと退けます。片方を選ぶこと自体が誤りだ、と。実務的には、思考が散らかっているときに考えを整理しようとするより、一つのことに向かうほうが早い、という読み方ができます。頭のなかの雑音は、消そうとすると増えます。真人は目覚めているとき自分を忘れ、眠るとき夢を見ない――どちらの状態でも余計なものが無い、という描き方です。
この章句が説くこと
神の遇うを夢と為し形の接するを事と為す神凝る者は想夢自ら消ゆ其の寝ぬるや夢みず
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