史記 / 南越列伝
乃乘黃屋左纛,稱制,與中國侔。
新字:乃乗黄屋左纛,称制,与中国侔。
書き下し
乃ち黄屋左纛に乗り、制と称し、中国と侔し。
現代語訳
そこで(趙佗は)黄色の絹の屋根に左側に旄牛の尾の旗を立てた天子の車に乗り、自らの命令を「制」と称して、中国の皇帝と肩を並べた。
解説
短い一文ですが、南越と漢の関係が大きく変わった瞬間を記しています。劉邦の死後、呂后が南越との鉄器などの交易を禁じると、趙佗は反発して自ら南越武帝と称しました。黄色の屋根の車に左の纛旗を立てるのは天子だけに許された乗り物で、「制」は皇帝の命令を指す言葉です。つまり趙佗は、儀礼の面で漢の皇帝と完全に対等であることを内外に示したのです。この後、文帝が再び陸賈を送って説得し、趙佗は帝号を取り下げて臣下の礼をとることになります。形式や肩書き、乗り物といった象徴は、単なる飾りではなく力関係の表明でもあります。取引先や提携相手が肩書きや儀礼で自己主張を始めたとき、その背後にある不満を読み取ることが大切だと教えてくれます。
関連する章句
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史記 南越列伝高后の時、有司南越の関市の鉄器を禁ぜんことを請ふ。佗曰く、「高帝我を立て、使物を通ず、今高后讒臣を聴き、蛮夷を別異し、器物を隔絶す、此れ必ず長沙王の計なり、中国に倚りて、南越を撃滅して之を并せ王たらんと欲し、自ら功と為すなり」と。是に於て佗乃ち自ら号を南越武帝と尊び、兵を発して長沙の辺邑を攻め、数県を敗りて去る。高后将軍隆慮侯灶を遣りて往きて之を撃たしむ。会たま暑溼にして、士卒大いに疫し、兵嶺を踰ゆる能はず。歳餘、高后崩じ、即ち兵を罷む。佗因此に兵を以て辺に威し、財物を閩越・西甌・駱に賂遺し、役属せしむ。
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史記 南越列伝孝文帝元年、初めて天下を鎮撫す。乃ち佗の親冢の真定に在るが為に、守邑を置き、歳時奉祀す。其の従昆弟を召し、官を尊くし賜を厚くして之を寵す。乃ち陸賈を召して以て太中大夫と為し、往きて使ひせしむ。陸賈南越に至るや、王甚だ恐れ、書を為りて謝す。乃ち頓首謝し、長く藩臣為り、貢職を奉ぜんことを願ふ。是に於て乃ち国中に令を下して曰く、「吾聞く両雄は俱には立たず、両賢は世を并せずと。皇帝は賢天子なり。今より以後、帝制黄屋左纛を去らん」と。陸賈還りて報じ、孝文帝大いに説ぶ。
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史記 南越列伝高帝已に天下を定むるも、中国の労苦するが為に、故に佗を釈して誅せず。漢の十一年、陸賈を遣はして因りて佗を立てて南越王と為し、与に符を剖きて使を通じ、百越を和集し、南辺の患害と為ること毋からしむ、長沙と境を接す。
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史記 南越列伝遂に孝景の時に至り、臣と称し、人をして朝請せしむ。然れども南越其の国に居りては窃かに故の号名の如くし、其の天子に使ひするや、王と称して命を朝すること諸侯の如し。建元四年に至りて卒す。佗の孫胡南越王と為る。此の時閩越王郢兵を興して南越の辺邑を撃つ、胡人をして上書せしめて曰く、「両越倶に藩臣為り、擅に兵を興して相攻撃するを得ること毋かれ。今閩越兵を興して臣を侵す、臣敢て兵を興さず、唯だ天子之に詔せよ」と。是に於て天子南越の義、職約を守るを多とし、為に師を興し、両将軍を遣はして往きて閩越を討たしむ。兵未だ嶺を踰えざるに、閩越王の弟余善郢を殺して以て降る、是に於て兵を罷む。天子荘助をして往きて意を南越王に諭さしむ、胡頓首して曰く、「天子乃ち臣が為に兵を興して閩越を討つ、死すとも以て徳に報ゆる無し」と。太子嬰斉を遣はして入りて宿衛せしむ。助に謂ひて曰く、「国新たに寇せらる、使者行け。胡方に日夜装して入りて天子に見えん」と。助去りし後、其の大臣胡を諫めて曰く、「漢兵を興して郢を誅するは、亦行くゆく以て南越を驚動せしむるなり。且つ先王昔言へり、天子に事へて礼を失ふ無きを期せよ、之を要するに好語を説くを以て入りて見ゆべからずと。入りて見ゆれば則ち復た帰るを得ず、亡国の勢ひなり」と。是に於て胡病と称し、竟に入りて見えず。後十余歳、胡実に病甚し、太子嬰斉帰らんことを請ふ。胡薨じ、謚して文王と為す。嬰斉代はりて立ち、即ち其の先の武帝の璽を蔵す。嬰斉其の入りて宿衛して長安に在りし時、邯鄲の樛氏の女を取り、子興を生む。位に即くに及び、上書して樛氏の女を立てて后と為し、興を嗣と為さんことを請ふ。漢数々使者をして嬰斉を風諭せしむるも、嬰斉尚ほ殺生を擅にして自ら恣にするを楽しみ、入りて見ゆれば漢法を用ひ、内諸侯に比せしめられんことを要むるを懼れ、固く病と称し、遂に入りて見えず。子次公を遣はして入りて宿衛せしむ。嬰斉薨じ、謚して明王と為す。太子興代はりて立ち、其の母太后と為る。
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史記 南越列伝二世の時に至り、南海尉任囂病みて且に死せんとし、龍川令趙佗を召して語りて曰く、「聞くならく陳勝等乱を作し、秦無道にして、天下之に苦しむと。中国擾乱し、豪傑秦に畔きて相立つ。南海は僻遠なり、吾兵を興して新道を絶ち、自ら備へ、諸侯の変を待たんと欲す、会たま病甚だし。且つ番禺は山険に負ひ、南海を阻て、東西数千里、頗る中国人の相輔くる有り、此れ亦た一州の主なり、以て国を立つ可し。郡中の長吏与に言ふに足る者無し、故に公を召して之を告ぐ」と。即ち佗の書を被り、南海尉の事を行ふ。囂死し、佗即ち橫浦・陽山・湟谿関に移檄し、稍く法を以て秦の置く所の長吏を誅す。秦已に破滅し、佗即ち桂林・象郡を撃并し、自立して南越武王と為る。
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史記 南越列伝南越王尉佗は、真定の人なり、姓は趙氏。秦の時已に天下を并せ、楊越を略定し、桂林・南海・象郡を置き、謫を以て民を徙し、越と雑処すること十三歳。佗は、秦の時用ひられて南海の龍川の令と為る。
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