史記 / 南越列伝
至二世時,南海尉任囂病且死,召龍川令趙佗語曰:「聞陳勝等作亂,秦為無道,天下苦之,項羽、劉季、陳勝、吳廣等州郡各共興軍聚眾,虎爭天下,中國擾亂,未知所安,豪傑畔秦相立。南海僻遠,吾恐盜兵侵地至此,吾欲興兵絕新道,自備,待諸侯變,會病甚。且番禺負山險,阻南海,東西數千里,頗有中國人相輔,此亦一州之主也,可以立國。郡中長吏無足與言者,故召公告之。」即被佗書,行南海尉事。囂死,佗即移檄告橫浦、陽山、湟谿關曰:「盜兵且至,急絕道聚兵自守!」因稍以法誅秦所置長吏,以其黨為假守。秦已破滅,佗即擊并桂林、象郡,自立為南越武王。
新字:至二世時,南海尉任囂病且死,召竜川令趙佗語曰:「聞陳勝等作乱,秦為無道,天下苦之,項羽、劉季、陳勝、呉広等州郡各共興軍聚衆,虎争天下,中国擾乱,未知所安,豪傑畔秦相立。南海僻遠,吾恐盗兵侵地至此,吾欲興兵絶新道,自備,待諸侯変,会病甚。且番禺負山険,阻南海,東西数千里,頗有中国人相輔,此亦一州之主也,可以立国。郡中長吏無足与言者,故召公告之。」即被佗書,行南海尉事。囂死,佗即移檄告横浦、陽山、湟谿関曰:「盗兵且至,急絶道聚兵自守!」因稍以法誅秦所置長吏,以其党為仮守。秦已破滅,佗即撃并桂林、象郡,自立為南越武王。
書き下し
二世の時に至り、南海尉任囂病みて且に死せんとし、龍川令趙佗を召して語りて曰く、「聞くならく陳勝等乱を作し、秦無道にして、天下之に苦しむと。中国擾乱し、豪傑秦に畔きて相立つ。南海は僻遠なり、吾兵を興して新道を絶ち、自ら備へ、諸侯の変を待たんと欲す、会たま病甚だし。且つ番禺は山険に負ひ、南海を阻て、東西数千里、頗る中国人の相輔くる有り、此れ亦た一州の主なり、以て国を立つ可し。郡中の長吏与に言ふに足る者無し、故に公を召して之を告ぐ」と。即ち佗の書を被り、南海尉の事を行ふ。囂死し、佗即ち橫浦・陽山・湟谿関に移檄し、稍く法を以て秦の置く所の長吏を誅す。秦已に破滅し、佗即ち桂林・象郡を撃并し、自立して南越武王と為る。
現代語訳
秦の二世の時代、南海の尉であった任囂が病に倒れて死のうとするとき、龍川の令・趙佗を呼んで語った。「聞くところでは、陳勝らが乱を起こし、秦は無道で、天下はそれに苦しんでいるという。中国は乱れ、豪傑たちは秦に背いて次々と立っている。南海は辺鄙で遠い。私は兵を挙げて新しい道を断ち切り、自ら備えて、諸侯の動きを見きわめようと思っていた。だがちょうど病が重くなった。それに番禺は険しい山を背負い、南海を隔てにしていて、東西数千里。中国から来た人々の助けもかなりある。ここは一つの州の主となれる地で、国を立てることができる。この郡の役人には語り合うに足る者がいない。だからあなたを呼んでこれを告げるのだ」。そして趙佗に文書を渡し、南海尉の職務を代行させた。任囂が死ぬと、佗はただちに橫浦・陽山・湟谿の関に檄を飛ばし、法を口実にして、秦が置いた役人をしだいに誅殺した。秦が滅びると、佗はそのまま桂林と象郡を攻め併合し、自ら立って南越武王となった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『長短経』覇図初め、南海の尉任囂、病みて、且に死せんとす。龍川の令趙佗を召して謂いて曰く「聞く、陳勝乱を作し、豪傑秦に叛きて相い立つ、と。番禺は山険を負い、南海に阻まれ、東西数千里、頗る中国の人の相い輔くる有り。此れ一州の主なり。以て国を立つ可し」と。即ち佗を以て東海の尉の事を行わしむ。囂死し、佗、檄を移して諸郡に告げて曰く「盗兵即ち至らん。急ぎ新道を絶ち、兵を聚めて自ら守れ」と。因りて稍く法を以て秦の置く所の長吏を誅し、其の党を以て仮守と為し、自立して南越の武王と為る。〉
-
史記 南越列伝南越王尉佗は、真定の人なり、姓は趙氏。秦の時已に天下を并せ、楊越を略定し、桂林・南海・象郡を置き、謫を以て民を徙し、越と雑処すること十三歳。佗は、秦の時用ひられて南海の龍川の令と為る。
-
史記 南越列伝太史公曰く、尉佗の王たるは、本任囂に由る。漢の初定に遭ひ、列して諸侯と為る。隆慮溼疫に離り、佗得て以て益ます驕る。甌駱相攻め、南越動揺す。漢兵境に臨み、嬰齊入朝す。其の後国を亡ふは、徵は樛女より自る。呂嘉小忠、佗をして後無からしむ。楼船欲を従にし、怠傲失惑す。伏波困窮して、智慮愈いよ殖え、禍に因りて福と為す。成敗の転、譬へば糾墨のごとし」と。
-
史記 南越列伝孝文帝元年、初めて天下を鎮撫す。乃ち佗の親冢の真定に在るが為に、守邑を置き、歳時奉祀す。其の従昆弟を召し、官を尊くし賜を厚くして之を寵す。乃ち陸賈を召して以て太中大夫と為し、往きて使ひせしむ。陸賈南越に至るや、王甚だ恐れ、書を為りて謝す。乃ち頓首謝し、長く藩臣為り、貢職を奉ぜんことを願ふ。是に於て乃ち国中に令を下して曰く、「吾聞く両雄は俱には立たず、両賢は世を并せずと。皇帝は賢天子なり。今より以後、帝制黄屋左纛を去らん」と。陸賈還りて報じ、孝文帝大いに説ぶ。
-
史記 南越列伝高帝已に天下を定むるも、中国の労苦するが為に、故に佗を釈して誅せず。漢の十一年、陸賈を遣はして因りて佗を立てて南越王と為し、与に符を剖きて使を通じ、百越を和集し、南辺の患害と為ること毋からしむ、長沙と境を接す。
-
史記 南越列伝高后の時、有司南越の関市の鉄器を禁ぜんことを請ふ。佗曰く、「高帝我を立て、使物を通ず、今高后讒臣を聴き、蛮夷を別異し、器物を隔絶す、此れ必ず長沙王の計なり、中国に倚りて、南越を撃滅して之を并せ王たらんと欲し、自ら功と為すなり」と。是に於て佗乃ち自ら号を南越武帝と尊び、兵を発して長沙の辺邑を攻め、数県を敗りて去る。高后将軍隆慮侯灶を遣りて往きて之を撃たしむ。会たま暑溼にして、士卒大いに疫し、兵嶺を踰ゆる能はず。歳餘、高后崩じ、即ち兵を罷む。佗因此に兵を以て辺に威し、財物を閩越・西甌・駱に賂遺し、役属せしむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る