史記 / 韓長孺列伝
恢曰:「始約虜入馬邑城,兵與單于接,而臣擊其輜重,可得利。今單于聞,不至而還,臣以三萬人眾不敵,禔取辱耳。臣固知還而斬,然得完陛下士三萬人。」於是下恢廷尉。廷尉當恢逗橈,當斬。恢私行千金丞相蚡。蚡不敢言上,而言於太后曰:「王恢首造馬邑事,今不成而誅恢,是爲匈奴報仇也。」上朝太后,太后以丞相言告上。上曰:「首爲馬邑事者,恢也,故發天下兵數十萬,從其言,爲此。且縱單于不可得,恢所部擊其輜重,猶頗可得,以慰士大夫心。今不誅恢,無以謝天下。」於是恢聞之,乃自殺。
新字:恢曰:「始約虜入馬邑城,兵与単于接,而臣撃其輜重,可得利。今単于聞,不至而還,臣以三万人衆不敵,禔取辱耳。臣固知還而斬,然得完陛下士三万人。」於是下恢廷尉。廷尉当恢逗橈,当斬。恢私行千金丞相蚡。蚡不敢言上,而言於太后曰:「王恢首造馬邑事,今不成而誅恢,是為匈奴報仇也。」上朝太后,太后以丞相言告上。上曰:「首為馬邑事者,恢也,故発天下兵数十万,従其言,為此。且縦単于不可得,恢所部撃其輜重,猶頗可得,以慰士大夫心。今不誅恢,無以謝天下。」於是恢聞之,乃自殺。
書き下し
恢曰く、「始め約すらく、虜馬邑の城に入り、兵単于と接せば、臣其の輜重を撃ちて、利を得べしと。今単于聞きて、至らずして還る。臣三万人の衆を以て敵せず、禔だ辱めを取らんのみ。臣固より還らば斬られんことを知る。然れども陛下の士三万人を完うするを得たり」と。是に於て恢を廷尉に下す。廷尉恢を逗橈に当て、斬に当つ。恢私かに千金を丞相蚡に行る。蚡敢へて上に言はず、而して太后に言ひて曰く、「王恢首として馬邑の事を造る。今成らずして恢を誅するは、是れ匈奴の為に仇を報ずるなり」と。上太后に朝す。太后丞相の言を以て上に告ぐ。上曰く、「首として馬邑の事を為す者は、恢なり。故に天下の兵数十万を発し、其の言に従ひて、此を為す。且つ単于を縦ちて得べからざるも、恢の部する所其の輜重を撃たば、猶ほ頗る得べく、以て士大夫の心を慰めん。今恢を誅せずんば、以て天下に謝する無し」と。是に於て恢之を聞き、乃ち自殺す。
現代語訳
王恢は言った。「初めの約束では、敵が馬邑の城に入り、わが軍が単于と交戦したら、わたくしがその輜重を攻撃して、利益を得られるはずであった。ところが単于は伏兵を聞きつけて、馬邑に来ずに帰ってしまった。わたくしの三万の兵では敵わず、ただ辱めを受けるだけであった。わたくしは引き返せば斬られることは初めからわかっていた。しかし陛下の兵士三万人を無事に保つことができたのである」。そこで王恢を廷尉(司法長官)に引き渡した。廷尉は王恢を、敵を前にしてためらい引き下がった罪に当て、斬罪とした。王恢はひそかに千金を丞相の田蚡に贈った。田蚡は天子に直接言う勇気はなく、太后に言った。「王恢は馬邑の計略を最初に立てた者である。今、計略が成功しなかったからといって王恢を誅殺すれば、匈奴のために仇を討ってやるようなものだ」。天子が太后のもとに参上すると、太后は丞相の言葉を天子に告げた。天子は言った。「馬邑の計略を最初に言い出したのは王恢である。だからこそ天下の兵数十万を動員し、その言葉に従ってこの作戦を行ったのである。それに、単于を取り逃がして捕らえられなかったとしても、王恢の部隊がその輜重を攻撃していれば、まだかなりの戦果が得られ、それで将兵の心を慰めることができた。今、王恢を誅殺しなければ、天下にわびるすべがない」。王恢はこれを聞いて自殺した。
解説
関連する章句
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史記 韓長孺列伝其の明年、則ち元光元年、鴈門の馬邑の豪聶翁壹、大行王恢に因りて上に言ひて曰く、「匈奴初めて和親し、辺を親信す。誘ふに利を以てすべし」と。陰かに聶翁壹をして間を為さしめ、亡げて匈奴に入り、単于に謂ひて曰く、「吾能く馬邑の令丞吏を斬り、城を以て降らん。財物尽く得べし」と。単于愛して之を信じ、以て然りと為し、聶翁壹に許す。聶翁壹乃ち還り、詐りて死罪の囚を斬り、其の頭を馬邑の城に県け、単于の使者に示して信と為す。曰く、「馬邑の長吏已に死せり。急に来るべし」と。是に於て単于塞を穿ちて十余万騎を将ゐ、武州の塞に入る。是の時に当たり、漢は車騎材官二十余万を伏せ、馬邑の旁の谷中に匿す。衛尉李広驍騎将軍と為り、太僕公孫賀軽車将軍と為り、大行王恢将屯将軍と為り、太中大夫李息材官将軍と為る。御史大夫韓安国護軍将軍と為り、諸将皆護軍に属す。約すらく、単于馬邑に入らば漢の兵縦発せんと。王恢・李息・李広は別に代より主として其の輜重を撃たんとす。是に於て単于漢の長城武州の塞に入る。未だ馬邑に至らざること百余里、行きて掠鹵するに、徒だ畜の野に牧せらるるを見て、一人を見ず。単于之を怪しみ、烽燧を攻めて、武州の尉史を得たり。尉史を刺問せんと欲す。尉史曰く、「漢の兵数十万馬邑の下に伏す」と。単于顧みて左右に謂ひて曰く、「幾ど漢の売る所と為らんとす」と。乃ち兵を引きて還る。塞を出でて、曰く、「吾尉史を得たるは、乃ち天なり」と。尉史に命じて「天王」と為す。塞下に伝へ言ふ、単于已に引き去ると。漢の兵追ひて塞に至り、及ばざるを度りて、即ち罷む。王恢等の兵三万、単于の漢と合はざるを聞き、往きて輜重を撃たば、必ず単于の精兵と戦はん、漢の兵勢必ず敗れんと度り、則ち便宜を以て兵を罷む。皆功無し。天子王恢の出でて単于の輜重を撃たずして、擅に兵を引きて罷むるを怒る。
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史記 匈奴列伝単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州の塞に入る。漢兵三十余万を馬邑の旁に伏せ、御史大夫韓安国護軍と為り、四将軍を護りて以て単于を伏す。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜の野に布けども人の牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時鴈門の尉史徼を行り、寇を見て、此の亭に葆り、漢の兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢の兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑へり」と。乃ち兵を引きて還る。出でて曰く、「吾尉史を得たるは、天なり。天若をして言はしむ」と。尉史を以て「天王」と為す。漢の兵約すらく単于馬邑に入らば縦たんと。単于至らず。故を以て漢の兵得る所無し。漢の将軍王恢の部代より出でて胡の輜重を撃たんとするも、単于の還り、兵多きを聞き、敢へて出でず。漢恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より後、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往往にして入りて漢の辺を盗むこと、勝げて数ふべからず。然れども匈奴は貪り、尚ほ関市を楽しみ、漢の財物を嗜む。漢も亦尚ほ関市絶たずして以て之に中つ。馬邑の軍より後五年の秋、漢四将軍をして各々万騎もて胡を関市の下に撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡の敗る所と為ること七千余人。李広鴈門より出で、胡の敗る所と為り、而して匈奴広を生け得たり。広後に亡げ帰るを得たり。漢敖・広を囚ふ。敖・広贖ひて庶人と為る。其の冬、匈奴数々入りて辺を盗み、漁陽尤も甚だし。漢将軍韓安国をして漁陽に屯して胡に備へしむ。其の明年秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西の太守を殺し、二千余人を略す。
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『新序』善謀第十大行曰く、然らず。夫れ草木の霜霧に中たるは、風を以て過ぐ可からず。清水明鏡は、形を以て遯る可からざるなり。方に通ずるの人は、文を以て亂す可からず。今臣の之を擊つと言うは、固より發して深く入るに非ざるなり。將に單于の欲に順因し、誘いて之を邊に致し、吾輕卒銳士を伏して以て之を待ち、陰かに險阻を〔一字を欠く〕して以て之に備えん。吾が勢い以て成る。或いは其の左に當たり、或いは其の右に當たり、或いは其の前に當たり、或いは其の後に當たらば、單于擒らう可く、百全必ず取らん。臣以爲えらく之を擊つは便なり、と。是に於いて遂に大行の言に從う。孝武皇帝自ら師を將い兵を馬邑に伏し、單于を誘致す。單于既に塞に入り、道に之を覺り、奔走して去る。其の後兵を交え刃を接し、怨みを結び禍を連ね、相い攻擊すること十年。兵凋み民勞し、百姓空虛にして道殣相い望み、槥車相い屬き、寇盜山に滿ち、天下搖動す。孝武皇帝後に之を悔ゆ。御史大夫桑弘羊輪臺に佃らんことを請う。詔して卻けて曰く、當今の務めは、務め暴を禁じ、擅賦を止むるに在り。今乃ち遠く西のかた佃る。民を慰むる所以に非ざるなり。朕聞くに忍びず、と。丞相を封じて號して富民侯と曰う。遂に復た兵事を言わず。國家以て寧く、繼嗣以て定まるは、韓安國の本謀に從えばなり。
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『新序』善謀第十孝武皇帝の時、大行王恢數ミ匈奴を擊つの便を言い、以て邊境の害を除く可しとす。和親の約を絶たんと欲す。御史大夫韓安國以爲えらく兵は動かす可からず、と。孝武皇帝羣臣を召して問いて曰く、朕子女を飾りて以て單于に配し、幣帛文錦、之に賂うこと甚だ厚し。今單于命に逆らい慢を加え、侵盜已む無く、邊郡數ミ驚く。朕甚だ之を閔れむ。今兵を舉げて以て匈奴を攻めんと欲す。如何、と。大行臣恢再拜稽首して曰く、善し。陛下言わずんば、臣固より之を謁べん。臣聞く、全代の時、北に未だ嘗て彊胡の敵有りて内に中國の兵に連ならざるはあらず、と。然れども尚お老を養い幼を長じ樹種時を以てするを得、倉廩常に實ち、守禦の備え具わり、匈奴敢えて輕々しく侵さざるなり。今陛下の威を以て、海内一家と爲り、天子同じく任じ、子弟を遣りて邊に乘り塞を守らしめ、粟を轉じ輓輸して、以て之が備えを爲す。而して匈奴の侵盜休まざる者は、他無し、之を痛ましめざるの患いなり。臣以爲えらく之を擊つは便なり、と。
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史記 韓信盧綰列伝明年の春、上は韓信の材武にして、王たる所の北は鞏・洛に近く、南は宛・葉に迫り、東に淮陽有り、皆天下の勁兵の処なるを以て、乃ち詔して韓王信を徙して太原以北に王とし、胡を備禦せしめ、晋陽に都せしむ。信上書して曰く、「国は辺を被ひ、匈奴数入る。晋陽は塞を去ること遠し。請ふ馬邑に治せん」と。上之を許し、信乃ち徙りて馬邑に治す。秋、匈奴の冒頓(ぼくとつ)大いに信を囲む。信数使を胡に使はして和解を求む。漢兵を発して之を救ふも、信の数間使するを疑ひ、二心有りとして、人をして信を責譲せしむ。信誅せられんことを恐れ、因りて匈奴と約して共に漢を攻め、反して馬邑を以て胡に降り、太原を撃つ。七年の冬、上自ら往きて撃ち、信の軍を銅鞮(どうてい)に破り、
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史記 魏其武安侯列伝詔書独り魏其の家に蔵し、家丞封ず。乃ち魏其を先帝の詔を矯むと劾し、罪棄市に当たる。五年十月、悉く灌夫及び家属を論ず。魏其良久しくして乃ち聞く。聞きて即ち恚り、痱を病み、食はずして死せんと欲す。或ひと上に魏其を殺すに意無しと聞く。魏其復た食ひ、病を治む。議定まりて死せざらんとす。乃ち蜚語の悪言を為して上に聞する有り。故に十二月の晦を以て論じて渭城に棄市す。其の春、武安侯病み、専ら服謝罪を呼ぶ。巫の鬼を視る者をして之を視しむるに、魏其・灌夫共に守りて、之を殺さんと欲するを見る。竟に死す。子恬嗣ぐ。元朔三年、武安侯襜褕を衣て宮に入るに坐し、不敬なり。淮南王安の謀反覚れ、治む。王前に朝す。武安侯太尉為り。時に王を覇上に迎へ、王に謂ひて曰く、「上未だ太子有らず。大王最も賢にして、高祖の孫なり。即し宮車晏駕せば、大王に非ずして立つるは当に誰なるべき」と。淮南王大いに喜び、厚く金財物を遺る。上魏其の時より武安を直とせず。特だ太后の為の故なるのみ。淮南王の金の事を聞くに及び、上曰く、「武安侯をして在らしめば、族せん」と。
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