史記 / 田叔列伝
叔為漢中守十餘年,會高后崩,諸呂作亂,大臣誅之,立孝文帝。
新字:叔為漢中守十余年,会高后崩,諸呂作乱,大臣誅之,立孝文帝。
書き下し
叔は漢中の守為ること十余年、会々高后崩じ、諸呂乱を作す。大臣之を誅し、孝文帝を立つ。
現代語訳
田叔は漢中郡の太守を十年余り務めた。ちょうどその頃、高后(呂后)が崩御し、呂氏一族が乱を起こした。大臣たちがこれを誅殺し、孝文帝を立てた。
解説
短い一文ですが、田叔の経歴と漢の大きな政変をつなぐ段です。田叔は趙王張敖の事件の後、高祖に取り立てられて漢中郡の太守となり、十年余りその職にありました。その間に呂后が亡くなり、呂氏一族が権力を握ろうとして乱を起こし、陳平・周勃らの大臣がこれを討って代王劉恒、すなわち孝文帝を迎え立てました。この政変は漢の皇統を守った大事件として、呂太后本紀や陳丞相世家に詳しく描かれています。司馬遷はここでその詳細を繰り返さず、田叔の人生の背景として一行で済ませ、すぐに次の段、孝文帝が田叔に「天下の長者」を問う場面へ移ります。地方で黙々と務めを果たしてきた人物が、中央の政権交代によって新しい主君の目に留まるという流れです。環境の大きな変化は、地道に積み上げてきた人にとって機会になることがあります。
関連する章句
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史記 孝文本紀孝文皇帝は、高祖の中子なり。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。即位十七年、高后の八年七月、高后崩ず。九月、諸呂呂産等乱を為し、以て劉氏を危ふくせんと欲す、大臣共に之を誅し、謀りて代王を召して立てんとす、事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等人をして代王を迎へしむ。代王左右の郎中令張武等に問ふ。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故の高帝の時の大将なり、兵に習ひ、謀詐多し、此れ其の意を属する所此に止まるに非ざるなり、特に高帝・呂太后の威を畏るるのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すす)る、此れ大王を迎ふるを以て名と為すも、実は信ずべからず。願はくは大王疾と称して往く毋く、以て其の変を観よ。」と。中尉宋昌進みて曰く、「群臣の議は皆非なり。夫れ秦其の政を失ひ、諸侯豪桀並び起こり、人人自ら以て之を得たりと為す者万を以て数ふ、然れども卒に天子の位を践む者は、劉氏なり、天下望みを絶つ、一なり。高帝子弟を王に封じ、地犬牙相制す、此れ所謂盤石の宗なり、天下其の彊きに服す、二なり。漢興り、秦の苛政を除き、法令を約し、徳恵を施し、人人自ら安んじ、動揺し難し、三なり。夫れ呂太后の厳を以て、諸呂を立てて三王と為し、権を擅にして専制す、然り而して太尉一節を以て北軍に入り、一呼して士皆左袒し、劉氏の為にし、諸呂に叛き、卒に以て之を滅ぼす。此れ乃ち天授にして、人力に非ざるなり。今大臣変を為さんと欲すと雖も、百姓為に使はれず、其の党寧ぞ能く専一ならんや。方今内には朱虚・東牟の親有り、外には呉・楚・淮南・瑯邪・斉・代の彊を畏る。
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史記 田叔列伝孝文帝既に立ち、田叔を召して之に問ひて曰く、「公天下の長者を知るか」と。対へて曰く、「臣何ぞ以て之を知るに足らん」と。上曰く、「公は長者なり、宜しく之を知るべし」と。叔頓首して曰く、「故の雲中の守孟舒は、長者なり」と。是の時孟舒、虜の大いに塞に入りて盗劫し、雲中尤も甚だしきに坐して、免ぜらる。上曰く、「先帝孟舒を雲中に置くこと十余年なり。虜曾て一たび入るに、孟舒堅守する能はず、故毋くして士卒戦死する者数百人。長者は固より人を殺すか。公何を以て孟舒を長者と為すと言ふや」と。叔叩頭して対へて曰く、「是れ乃ち孟舒の長者為る所以なり。夫れ貫高等謀反し、上明詔を下し、趙に敢へて張王に随ふ有らば、罪は三族なりと。然るに孟舒自ら髠鉗し、張王敖の所在に随ひ、身を以て之に死せんと欲す。豈に自ら雲中の守と為るを知らんや。漢と楚と相距ぎ、士卒罷敝す。匈奴の冒頓新たに北夷を服し、来りて辺害を為す。孟舒士卒の罷敝するを知り、言を出すに忍びず。士争ひて城に臨みて敵に死すること、子の父の為にし、弟の兄の為にするが如し。故を以て死する者数百人。孟舒豈に故らに駆りて之を戦はしめんや。是れ乃ち孟舒の長者為る所以なり」と。是に於て上曰く、「賢なるかな孟舒」と。復た孟舒を召して以て雲中の守と為す。
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史記 田叔列伝会たま陳豨代に反く、漢の七年、高祖往きて之を誅す、趙を過ぐ、趙王張敖自ら案を持して食を進む、礼恭しきこと甚だし、高祖箕踞して之を罵る。是の時趙相趙午等数十人皆怒り、張王に謂ひて曰く、「王上に事へ礼備はれり、今王に遇すること是くのごとし、臣等請ふ乱を為さん」と。趙王指を齧み血を出だして曰く、「公等柰何ぞ言ふこと是くのごとき、復た口より出だす毋かれ」と。会たま事発覚し、漢詔を下して趙王及び群臣の反する者を捕ふ。漢詔書を下す、「趙敢て王に随ふ者有らば罪三族に及ぶ」と。唯だ孟舒・田叔等十餘人のみ赭衣し自ら髡鉗し、王家の奴と称し、趙王敖に随ひて長安に至る。貫高の事明白にして、趙王敖出づるを得、乃ち田叔等十餘人を進言す。上尽く召見し、与に語り、漢廷の臣其の右に出づる能ふもの毋し、上説び、尽く拝して郡守・諸侯相と為す。
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史記 田叔列伝田叔は、趙の陘城の人なり。其の先は、斉の田氏の苗裔なり。叔は剣を喜み、黄老の術を楽巨公の所に学ぶ。叔の人と為りは刻廉にして自ら喜び、喜んで諸公に游ぶ。趙人之を趙の相趙午に挙げ、午之を趙王張敖の所に言ひ、趙王以て郎中と為す。数歳、切直廉平なり。趙王之を賢とするも、未だ遷すに及ばず。
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史記 絳侯周勃世家勃は人と為り木彊敦厚にして、高帝以為へらく大事を属すべしと。勃は文学を好まず、諸生説士を召す毎に、東郷して坐して之を責む、「趣やかに我が為に語れ」と。其の椎にして文少なきこと此くの如し。勃既に燕を定めて帰るに、高祖已に崩ぜり、列侯を以て孝恵帝に事ふ。孝恵帝の六年、太尉の官を置き、勃を以て太尉と為す。十歳にして、高后崩ず。呂禄趙王を以て漢の上将軍と為り、呂産呂王を以て漢の相国と為り、漢の権を秉り、劉氏を危うくせんと欲す。勃太尉たれども、軍門に入るを得ず。陳平丞相たれども、事に任ずるを得ず。是に於いて勃平と謀り、卒に諸呂を誅して孝文皇帝を立つ。其の語は呂后・孝文の事の中に在り。文帝既に立ち、勃を以て右丞相と為し、金五千斤を賜ひ、食邑万戸なり。居ること月余、人或ひと勃に説きて曰く、「君既に諸呂を誅し、代王を立て、威天下を震はす、而して君厚賞を受け、尊位に処り、寵を以てす、之を久しくせば即ち禍身に及ばん」と。勃懼れ、亦自ら危ぶみ、乃ち謝して相印を帰さんことを請ふ。上之を許す。歳余にして、丞相平卒し、上復た勃を以て丞相と為す。十余月にして、上曰く、「前日吾列侯に詔して国に就かしむるに、或いは未だ行く能はず、丞相は吾が重んずる所なり、其れ之に率先せよ」と。乃ち相を免ぜられて国に就く。歳余、河東の守尉県を行りて絳に至る毎に、絳侯勃自ら誅せらるるを畏れ恐れ、常に甲を被り、家人をして兵を持たしめて以て之に見ゆ。其の後人上書して勃反せんと欲すと告ぐる有り、廷尉に下す。廷尉其の事を長安に下し、勃を逮捕して之を治む。勃恐れ、辞を置くを知らず。吏稍く之を侵辱す。勃千金を以て獄吏に与ふ、獄吏乃ち牘の背に書して之に示して曰く、「公主を以て証と為せ」と。公主は、孝文帝の女なり、勃の太子勝之之を尚る、故に獄吏引きて証と為さしむ。勃の益封受賜は、尽く以て薄昭に予ふ。係ること急なるに及び、薄昭為に薄太后に言ひ、太后も亦以為へらく反事無しと。
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