史記 / 仲尼弟子列伝
有若曰:「禮之用,和爲貴,先王之道斯爲美。小大由之,有所不行;知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」「信近於義,言可復也;恭近於禮,遠恥辱也;因不失其親,亦可宗也。」孔子既沒,弟子思慕,有若狀似孔子,弟子相與共立爲師,師之如夫子時也。他日,弟子進問曰:「昔夫子當行,使弟子持雨具,已而果雨。弟子問曰:『夫子何以知之?』夫子曰:『《詩》不云乎?「月離于畢,俾滂沱矣。」昨暮月不宿畢乎?』他日,月宿畢,竟不雨。商瞿年長無子,其母爲取室。孔子使之齊,瞿母請之。孔子曰:『無憂,瞿年四十後當有五丈夫子。』已而果然。問夫子何以知此?」有若默然無以應。弟子起曰:「有子避之,此非子之座也!」公西赤字子華。少孔子四十二歳。子華使於齊,冉有爲其母請粟。孔子曰:「與之釜。」請益,曰:「與之庾。」冉子與之粟五秉。孔子曰:「赤之適齊也,乘肥馬,衣輕裘。吾聞君子周急不繼富。」巫馬施字子旗。少孔子三十歳。陳司敗問孔子曰:「魯昭公知禮乎?」孔子曰:「知禮。」退而揖巫馬旗曰:「吾聞君子不黨,君子亦黨乎?魯君娶吳女爲夫人,命之爲孟子。孟子姓姬,諱稱同姓,故謂之孟子。魯君而知禮,孰不知禮!」施以告孔子,孔子曰:「丘也幸,苟有過,人必知之。
新字:有若曰:「礼之用,和為貴,先王之道斯為美。小大由之,有所不行;知和而和,不以礼節之,亦不可行也。」「信近於義,言可復也;恭近於礼,遠恥辱也;因不失其親,亦可宗也。」孔子既没,弟子思慕,有若状似孔子,弟子相与共立為師,師之如夫子時也。他日,弟子進問曰:「昔夫子当行,使弟子持雨具,已而果雨。弟子問曰:『夫子何以知之?』夫子曰:『《詩》不云乎?「月離于畢,俾滂沱矣。」昨暮月不宿畢乎?』他日,月宿畢,竟不雨。商瞿年長無子,其母為取室。孔子使之斉,瞿母請之。孔子曰:『無憂,瞿年四十後当有五丈夫子。』已而果然。問夫子何以知此?」有若黙然無以応。弟子起曰:「有子避之,此非子之座也!」公西赤字子華。少孔子四十二歳。子華使於斉,冉有為其母請粟。孔子曰:「与之釜。」請益,曰:「与之庾。」冉子与之粟五秉。孔子曰:「赤之適斉也,乗肥馬,衣軽裘。吾聞君子周急不継富。」巫馬施字子旗。少孔子三十歳。陳司敗問孔子曰:「魯昭公知礼乎?」孔子曰:「知礼。」退而揖巫馬旗曰:「吾聞君子不党,君子亦党乎?魯君娶呉女為夫人,命之為孟子。孟子姓姫,諱称同姓,故謂之孟子。魯君而知礼,孰不知礼!」施以告孔子,孔子曰:「丘也幸,苟有過,人必知之。
書き下し
有若曰く、「礼の用は、和を貴しと為す、先王の道も斯を美と為す。小大之に由れば、行はれざる所有り。和を知りて和すれども、礼を以て之を節せざれば、亦行はるべからざるなり」と。「信義に近ければ、言復むべきなり。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかるなり。因ること其の親を失はざれば、亦宗とすべきなり」と。孔子既に没し、弟子思慕し、有若の状孔子に似たれば、弟子相与に共に立てて師と為し、之に師事すること夫子の時の如くす。他日、弟子進みて問ひて曰く、「昔夫子当に行かんとするに、弟子をして雨具を持たしむ、已にして果たして雨ふる。弟子問ひて曰く、『夫子何を以て之を知る』と。夫子曰く、『詩に云はずや、「月畢に離れば、滂沱たらしむ」と。昨暮月畢に宿らざりしか』と。他日、月畢に宿るも、竟に雨ふらず。商瞿年長じて子無し、其の母為に室を取らんとす。孔子之をして斉に使ひせしめんとす、瞿の母之を請ふ。孔子曰く、『憂ふること無かれ、瞿年四十の後当に五丈夫子有るべし』と。已にして果たして然り。問ふ夫子何を以て此を知りしか」と。有若黙然として以て応ふる無し。弟子起ちて曰く、「有子之を避けよ、此れ子の座に非ざるなり」と。公西赤、字は子華。孔子より少きこと四十二歳。子華斉に使ひす、冉有其の母の為に粟を請ふ。孔子曰く、「之に釜を与へよ」と。益を請ふ、曰く、「之に庾を与へよ」と。冉子之に粟五秉を与ふ。孔子曰く、「赤の斉に適くや、肥馬に乗り、軽裘を衣る。吾聞く君子は急を周ひて富を継がずと」と。巫馬施、字は子旗。孔子より少きこと三十歳。陳の司敗孔子に問ひて曰く、「魯の昭公は礼を知るか」と。孔子曰く、「礼を知る」と。退きて巫馬旗に揖して曰く、「吾聞く君子は党せずと、君子も亦党するか。魯君呉の女を娶りて夫人と為し、之に命じて孟子と為す。孟子の姓は姫なり、同姓と称するを諱む、故に之を孟子と謂ふ。魯君にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん」と。施以て孔子に告ぐ、孔子曰く、「丘や幸ひなり、苟も過ち有れば、人必ず之を知る。
現代語訳
有若は言った。「礼の働きは調和を尊ぶことにある。古の聖王の道も、これを美しいとした。しかし小事も大事もすべて調和だけに頼ると、うまくいかないことがある。調和の大切さを知って調和を図っても、礼によってけじめをつけなければ、やはりうまくいかない。」また言った。「約束が義にかなっていれば、その言葉は実行できる。恭しさが礼にかなっていれば、恥辱から遠ざかることができる。頼る相手が親しむべき人を外していなければ、その人を尊び仰ぐことができる。」孔子が亡くなると、弟子たちは孔子を慕い、有若の容貌が孔子に似ていたので、皆で有若を師に立て、孔子の生前と同じように仕えた。ある日、弟子が進み出て尋ねた。「昔、先生が出かけようとしたとき、弟子に雨具を持たせたところ、やがて果たして雨が降った。弟子が『先生はどうして雨が降ると分かったのか』と尋ねると、先生は『詩経に「月が畢(ひつ)の星宿にかかると、大雨が降る」とあるではないか。昨夜、月は畢に宿っていなかったか』と言われた。ところが別の日、月が畢に宿っても、ついに雨は降らなかった。また、商瞿は年をとっても子がなく、母親が彼のために妾を迎えようとした。孔子が商瞿を斉に使いさせようとすると、商瞿の母が行かせないでほしいと願った。孔子は『心配しなくてよい。瞿は四十歳を過ぎたら五人の男子に恵まれるだろう』と言われた。やがて果たしてそのとおりになった。先生はどうしてそのことが分かったのか、お尋ねしたい。」有若は黙り込んで答えられなかった。弟子たちは立ち上がって言った。「有子よ、その席を退かれよ。そこはあなたの座る席ではない。」公西赤は字を子華という。孔子より四十二歳年下である。子華が斉に使いに行ったとき、冉有が子華の母のために穀物を与えてほしいと願い出た。孔子は「一釜(ふ)を与えよ」と言った。冉有がもう少し増やしてほしいと願うと、孔子は「一庾(ゆ)を与えよ」と言った。ところが冉有は五秉(へい)もの穀物を与えた。孔子は言った。「赤は斉に行くのに、肥えた馬に乗り、軽い毛皮を着ていた。君子は困窮している者を救うが、富んでいる者にさらに継ぎ足すことはしない、とわたしは聞いている。」巫馬施(ふばし)は字を子旗という。孔子より三十歳年下である。陳の司敗(司法官)が孔子に尋ねた。「魯の昭公は礼をわきまえていたか。」孔子は「礼をわきまえておられた」と答えた。孔子が退出すると、司敗は巫馬旗に会釈して言った。「君子は身内びいきをしないと聞いているが、君子も身内びいきをするのか。魯君は呉の娘を夫人に迎え、呉孟子と呼ばせた。孟子の姓は魯と同じ姫であり、同姓の者を娶ったことを隠すために孟子と呼んだのだ。魯君が礼をわきまえていると言うなら、礼をわきまえない者などいようか。」巫馬施がこれを孔子に告げると、孔子は言った。「わたしは幸せ者だ。もし過ちがあれば、人が必ず気づいてくれる。
解説
関連する章句
-
史記 仲尼弟子列伝孔子易を瞿に伝へ、瞿楚人馯臂子弘に伝へ、弘江東の人矯子庸疵に伝へ、疵燕人周子家豎に伝へ、豎淳于の人光子乗羽に伝へ、羽斉人田子荘何に伝へ、何東武の人王子中同に伝へ、同菑川の人楊何に伝ふ。何元朔中に易を治むるを以て漢の中大夫と為る。高柴、字は子羔。孔子より少きこと三十歳。子羔長五尺に盈たず、業を孔子に受く、孔子以て愚と為す。子路子羔をして費郈の宰と為らしむ、孔子曰く、「夫の人の子を賊ふ」と。子路曰く、「民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん」と。孔子曰く、「是の故に夫の佞者を悪む」と。漆彫開、字は子開。孔子開をして仕へしめんとす、対へて曰く、「吾斯を之れ未だ信ずる能はず」と。孔子説ぶ。公伯繚、字は子周。周子路を季孫に訴ふ、子服景伯以て孔子に告げて、曰く、「夫子固より惑志有り、繚や、吾が力猶ほ能く諸を市朝に肆さん」と。孔子曰く、「道の将に行はれんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯繚其れ命を如何せん」と。司馬耕、字は子牛。牛多言にして躁なり。仁を孔子に問ふ、孔子曰く、「仁者は其の言や訒」と。曰く、「其の言や訒、斯に之を仁と謂ふべきか」と。子曰く、「之を為すこと難し、之を言ふに訒なること無きを得んや」と。君子を問ふ、子曰く、「君子は憂へず懼れず」と。曰く、「憂へず懼れず、斯に之を君子と謂ふべきか」と。子曰く、「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂へ何をか懼れん」と。樊須、字は子遅。孔子より少きこと三十六歳。樊遅稼を学ばんことを請ふ、孔子曰く、「吾老農に如かず」と。圃を学ばんことを請ふ、曰く、「吾老圃に如かず」と。樊遅出づ、孔子曰く、「小人なるかな樊須や。上礼を好めば、則ち民敢へて敬せざる莫し。上義を好めば、則ち民敢へて服せざる莫し。上信を好めば、則ち民敢へて情を用ひざる莫し。夫れ是くの如くんば、則ち四方の民其の子を襁負して至らん、焉んぞ稼を用ひん」と。樊遅仁を問ふ、子曰く、「人を愛す」と。智を問ふ、曰く、「人を知る」と。有若は孔子より少きこと四十三歳。
-
史記 仲尼弟子列伝公冶長、斉人、字は子長。孔子曰く、「長は妻はす可きなり、累紲の中に在りと雖も、其の罪に非ざるなり」と。其の子を以て之に妻はす。南宮括、字は子容。孔子に問ひて曰く、「羿は射を善くし、奡は舟を盪かすも、俱に其の死を得ず、禹・稷は躬ら稼して天下を有つ」と。孔子答へず。容出づ。孔子曰く、「君子なるかな若き人、上徳なるかな若き人」と。「国道有れば廃せられず、国道無くして刑戮を免る」と。三たび白珪の玷を復す。其の兄の子を以て之に妻はす。公皙哀、字は季次。孔子曰く、「天下行無く、多く家臣と為り都に仕ふ、唯季次のみ未だ嘗て仕へず」と。曾蒧、字は皙。孔子に侍る。孔子曰く、「爾の志を言へ」と。蒧曰く、「春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん」と。孔子喟爾として嘆じて曰く、「吾は蒧に与せん」と。
-
史記 仲尼弟子列伝臣は君親の悪を言ふべからず、為に諱む者は、礼なり」と。梁鱣、字は叔魚。孔子より少きこと二十九歳。顔幸、字は子柳。孔子より少きこと四十六歳。冉孺、字は子魯、孔子より少きこと五十歳。曹卹、字は子循。孔子より少きこと五十歳。伯虔、字は子析、孔子より少きこと五十歳。公孫竜、字は子石。孔子より少きこと五十三歳。
-
孔子家語・七十二弟子解巫馬期は、陳の人、字は子期、孔子より少きこと三十歲。孔子將に近く行かんとし、從う者に命じて皆蓋を持たしむ、已にして果たして雨ふる。巫馬期問いて曰く、「旦に雲無く、既に日出づるに、夫子雨具を持たしむるを命ず、敢えて問う何を以て之を知るや」と。孔子曰く、「昨暮月畢に宿る、詩に云わずや、『月畢に離り、俾に滂沱たらしむ』と。此を以て之を知る」と。
-
孔子家語・弟子行子貢既に衛の將軍文子と言い、魯に適きて孔子に見えて曰わく、「衛の將軍文子、二三子の賜に於けるを問うこと、壹ならずして三たびす。賜や辭命を獲ずして、見る所の者を以て對う、未だ中るや否やを知らず。請う以て告げん。」孔子曰わく、「之を言え。」子貢其の辭狀を以て孔子に告ぐ。子聞きて笑いて曰わく、「賜、汝は人に次げり。」子貢對えて曰わく、「賜や、何ぞ敢えて人を知らんや。此れ賜の睹る所を以てするなり。」孔子然として曰わく、「吾れ亦た汝に耳の未だ聞かざる所、目の未だ見ざる所の者を語らん。豈に思いの至らざる所、智の未だ及ばざる所ならんや。」子貢曰わく、「賜願わくば之を聞くを得ん。」孔子曰わく、「克たず忌まず、舊怨を念わず。蓋し伯夷・叔齊の行なり。天を思いて人を敬い、義に服して信を行う。父母に孝、兄弟に恭。善に從いて教えず、蓋し趙文子の行なり。其の君に事うるや、敢えて其の死を愛しまず、然れども亦た敢えて其の身を忘れず。其の身を謀りて其の友を遺てず。君陳ずれば則ち進みて之を用い、陳ぜざれば則ち行きて退く、蓋し隨武子の行なり。其の人と為りの淵源たるや、多聞にして誕り難く、內に植てて以て其の世を沒するに足る。國家道有れば、其の言以て治むるに足る。道無ければ、其の默以て生くるに足る。蓋し銅鍉伯華の行なり。外寬にして內正しく、自ら隱括の中に極む。己を直くして人を直くせず。仁に汲汲として、善を以て自ら終う。蓋し蘧伯玉の行なり。孝恭慈仁、允に德義を圖る。貨を約め怨みを去り、財を輕んじて匱しからず。蓋し柳下惠の行なり。其の言に曰わく、『君其の身を量らずと雖も、臣以て其の君に忠ならざる可からず。』と。是の故に君は臣を擇びて之に任じ、臣も亦た君を擇びて之に事う。道有れば命に順い、道無ければ命に衡らう、蓋し晏平仲の行なり。忠を蹈みて信を行い、終日言えども尤の內に在らず。國道無ければ、賤に處るも悶えず、貧しくして能く樂しむ。蓋し老子の行なり。行を易えて以て天命を俟ち、下に居りて其の上に援らず。其の親しく四方を觀るや、其の親を忘れず、其の樂を盡くさず。能わざるを以て則ち學び、己の終身の憂いと爲さず。蓋し介子山の行なり。」
-
史記 孔子世家夫人帷中より再拝す、環珮の玉声璆然たり。孔子曰く、「吾郷に見えずと為す、之を見るに礼もて答ふ」と。子路説ばず。孔子之に矢ひて曰く、「予が否なる所の者は、天之を厭たん、天之を厭たん」と。衛に居ること月余、霊公夫人と車を同じくし、宦者雍渠参乗し、出で、孔子をして次乗為らしめ、招揺して市に之を過ぐ。孔子曰く、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衛を去り、曹を過ぐ。是の歳、魯の定公卒す。孔子曹を去りて宋に適き、弟子と礼を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「以て速やかにすべし」と。孔子曰く、「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」と。孔子鄭に適き、弟子と相失ひ、孔子独り郭の東門に立つ。鄭人或ひと子貢に謂ひて曰く、「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子産に類す、然れども要より以下は禹に及ばざること三寸。纍纍として喪家の狗の若し」と。子貢実を以て孔子に告ぐ。孔子欣然として笑ひて曰く、「形状は末なり。而るに喪家の狗に似たりと謂ふは、然るかな、然るかな」と。孔子遂に陳に至り、司城貞子の家に主たり。歳余にして、呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。趙鞅朝歌を伐つ。楚蔡を囲み、蔡呉に遷る。呉、越王句践を会稽に敗る。隼有り陳の廷に集まりて死す、楛矢之を貫く、石砮にして、矢の長さ尺有咫。陳の湣公使をして仲尼に問はしむ。仲尼曰く、「隼の来たること遠し、此れ粛慎の矢なり。昔武王商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各々其の方賄を以て来貢せしめ、職業を忘るること無からしむ。是に於て粛慎楛矢石砮を貢す、長さ尺有咫。先王其の令徳を昭らかにせんと欲し、粛慎の矢を以て大姫に分かち、虞の胡公に配して諸を陳に封ず。同姓に分かつに珍玉を以てし、親を展ぶ。異姓に分かつに遠職を以てし、服を忘るること無からしむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る