孔子家語 / 七十二弟子解
巫馬期,陳人,字子期,少孔子三十歲。孔子將近行,命從者皆持蓋,已而果雨。巫馬期問曰:「旦無雲,既日出,而夫子命持雨具,敢問何以知之?」孔子曰:「昨暮月宿畢,詩不云乎:『月離於畢,俾滂沱矣。』以此知之。」
新字:巫馬期,陳人,字子期,少孔子三十歳。孔子将近行,命従者皆持蓋,已而果雨。巫馬期問曰:「旦無雲,既日出,而夫子命持雨具,敢問何以知之?」孔子曰:「昨暮月宿畢,詩不云乎:『月離於畢,俾滂沱矣。』以此知之。」
書き下し
巫馬期は、陳の人、字は子期、孔子より少きこと三十歲。孔子將に近く行かんとし、從う者に命じて皆蓋を持たしむ、已にして果たして雨ふる。巫馬期問いて曰く、「旦に雲無く、既に日出づるに、夫子雨具を持たしむるを命ず、敢えて問う何を以て之を知るや」と。孔子曰く、「昨暮月畢に宿る、詩に云わずや、『月畢に離り、俾に滂沱たらしむ』と。此を以て之を知る」と。
現代語訳
巫馬期は陳の人で、字は子期といい、孔子より30歳年下であった。孔子が近くへ出かけようとした際、従者に皆傘を持たせるよう命じたところ、はたして間もなく雨が降った。巫馬期が『朝には雲もなく、日も出ていたのに、先生が雨具を持たせるよう命じられたのは、どうしてお分かりになったのですか』と尋ねると、孔子は『昨夜、月が畢宿にとどまっていた。詩経にも「月が畢宿に近づけば、雨が激しく降る」とあるではないか。これによって知ったのだ』と答えた。
解説
この一文は、孔子が天文と『詩経』の知識を組み合わせて天候を的確に予測した逸話を伝えています。引用されている『月離于畢,俾滂沱矣』は『詩経』小雅・漸漸之石篇の句で、月が畢宿(二十八宿の一つ)に近づくと大雨が降るという、当時の天文観測に基づく経験則を詠んだものです。孔子はこの詩の知識と前夜の天体観測とを結びつけて雨を予見し、実際にその通りになったことで巫馬期を驚かせました。これは孔子が単なる道徳の教師ではなく、『詩経』を実用的な知恵の書としても活用し、自然現象への深い観察眼を持っていたことを示す興味深い逸話です。古典の知識を暗記にとどめず、実際の生活や判断に生かすという姿勢は、現代における学びのあり方にも通じる示唆を与えてくれます。知識を体系的に結びつけて実践に応用する力の大切さを、この逸話は教えてくれます。
この章句が説くこと
巫馬期詩経小雅畢宿天候予測孔子の博識
関連する章句
-
孔子家語・致思孔子将に行かんとして、雨ふりて蓋無し。門人曰わく、「商や之有り。」 孔子曰わく、「商の人と為るや、甚だ財に恡し。吾人と交わるに、其の長ずる所を推し、其の短なる所を違くと聞く、故に能く久しきなり。」
-
孔子家語・辯政齊に一足の鳥有り、飛びて宮朝に集まり、下りて殿前に止まり、翅を舒べて跳る。齊侯大いに之を怪しみ、使いをして魯に聘わしめ、孔子に問う。孔子曰わく、「此の鳥名づけて商羊と曰う、水祥なり。昔童兒其の一腳を屈むる有り、兩眉を振訊わせ、跳りて且つ謠いて曰わく、『天將に大雨ふらんとす、商羊鼓舞す。』と。今齊之有り、其の應至れり。」急ぎ民に告げて溝渠を治め、堤防を修めしめ、將に大水の災を為さんとするに趨かしむ。頃之にして大霖雨あり、水溢れて諸國に泛れ、民人を傷害す。唯だ齊のみ備え有りて、敗れず。景公曰わく、「聖人の言、信にして征あり。」
-
孔子家語・六本孔子斉に在り、外館に舎る。景公造く。賓主の辞既に接するや、左右白して曰わく、「周の使い適に至り、先王の廟災すと言う。」景公覆た災は何れの王の廟なるかを問う。孔子曰わく、「此れ必ず厘王の廟ならん。」公曰わく、「何を以て之れを知るや。」孔子曰わく、「詩に云う、『皇皇たる上天、其の命忒わず。天の善を以てするや、必ず其の徳に報ゆ。』禍も亦た之れの如し。夫れ厘王は文武の制を変じ、玄黄華麗の飾りを作り、宮室崇峻に、輿馬奢侈にして、振るう可からず。故に天殃宜しく其の廟に加うべし、是を以て之れを占なうに然りと為す。」公曰わく、「天何ぞ其の身を殃せずして、其の廟に罰を加うるや。」孔子曰わく、「蓋し文武を以ての故なり。若し其の身を殃せば、則ち文武の嗣、乃ち殄びんとするに無からんや。故に当に其の廟を殃すべく、以て其の過ちを彰らかにす。」俄頃にして、左右報じて曰わく、「災する所は、厘王の廟なり。」景公驚き起ちて、再拝して曰わく、「善いかな、聖人の智、人に過ぐること遠し。」
-
説苑・辨物楚の昭王江を渡るに、物有りて大いさ斗の如く、直ちに王の舟に触れ、舟中に止まる。昭王大いに之を怪しみ、使いをして孔子に聘問せしむ。孔子曰わく、「此れ萍実(へいじつ)と名づく。」剖(さ)きて之を食らわしめて曰わく、「惟だ覇者のみ能く之を獲(う)。此れ吉祥なり。」其の後斉に飛鳥一足なる有りて来下し、殿前に止まり、翅を舒(の)べて跳ぶ。斉侯大いに之を怪しみ、又使いをして孔子に聘問せしむ。孔子曰わく、「此れ商羊と名づく。急ぎ民に告げて趣(すみ)やかに溝渠を治めしめよ。天将に大いに雨ふらんとす。」是に於いて之の如くすれば、天果たして大いに雨ふり、諸国皆水す。斉独り以て安し。孔子帰るに、弟子問うことを請う。孔子曰わく、「異時(かつて)小児謠に曰わく、楚王江を渡りて萍実を得たり、大いさ拳の如く、赤きこと日の如し、剖きて之を食らえば、美なること蜜の如しと。此れ楚の応なり。児又両両相牽き、一足を屈して跳び、曰わく、天将に大いに雨ふらんとす、商羊起きて舞うと。今斉之を獲たるも、亦た其の応なり。夫れ謠の後、未だ嘗て応の随う者有らざるなし。故に聖人は独り道を守るのみに非ざるなり、物を睹て記す、即ち其の応を得るなり。」
-
孔子家語・問玉孔子曰く、「其の國に入れば、其の教え知るべし。其の人と為りや、溫柔敦厚なるは、詩の教えなり。疏通知遠なるは、書の教えなり。廣博易良なるは、樂の教えなり。潔靜精微なるは、易の教えなり。恭儉莊敬なるは、禮の教えなり。辭を屬ね事を比するは、春秋の教えなり。故に詩の失は愚、書の失は誣、樂の失は奢、易の失は賊、禮の失は煩、春秋の失は亂なり。其の人と為りや、溫柔敦厚にして愚ならざれば、則ち詩に深き者なり。疏通知遠にして誣ならざれば、則ち書に深き者なり。廣博易良にして奢ならざれば、則ち樂に深き者なり。潔靜精微にして賊ならざれば、則ち易に深き者なり。恭儉莊敬にして煩ならざれば、則ち禮に深き者なり。辭を屬ね事を比して亂ならざれば、則ち春秋に深き者なり。天に四時有るは、春夏秋冬、風雨霜露、教えに非ざる無きなり。地神氣を載せ、雷霆を吐納し、庶物を流形するも、教えに非ざる無きなり。清明躬に在りて、氣志神のごとく、物將に至らんとする有れば、其の兆必ず先んず。是の故に天地の教えは、聖人と相參わる。其の詩に在りて曰く、『嵩高たる惟れ嶽、峻極天に於てす。惟れ嶽神を降し、甫と申とを生ず。惟れ申と甫とは、惟れ周の翰なり。』四國に於て蕃たり、四方に於て宣たり、此れ文武の德なり。其の文德を矢べ、此の四國に協う、此れ文王の德なり。凡そ三代の王は、必ず其の令問を先んず。詩に云う、『明明たる天子、令問已まず』とは、三代の德なり。」
-
史記 仲尼弟子列伝公冶長、斉人、字は子長。孔子曰く、「長は妻はす可きなり、累紲の中に在りと雖も、其の罪に非ざるなり」と。其の子を以て之に妻はす。南宮括、字は子容。孔子に問ひて曰く、「羿は射を善くし、奡は舟を盪かすも、俱に其の死を得ず、禹・稷は躬ら稼して天下を有つ」と。孔子答へず。容出づ。孔子曰く、「君子なるかな若き人、上徳なるかな若き人」と。「国道有れば廃せられず、国道無くして刑戮を免る」と。三たび白珪の玷を復す。其の兄の子を以て之に妻はす。公皙哀、字は季次。孔子曰く、「天下行無く、多く家臣と為り都に仕ふ、唯季次のみ未だ嘗て仕へず」と。曾蒧、字は皙。孔子に侍る。孔子曰く、「爾の志を言へ」と。蒧曰く、「春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん」と。孔子喟爾として嘆じて曰く、「吾は蒧に与せん」と。