史記 / 孝武本紀
太史公曰、方士の神仙を言ふ、其の後蓋し益ます甚だし、然れども其の効を睹ざるなり。天子廃せずして之を待つ、冀くは真に遇ふことを。方士の候祠する所、其の験を効せず、費用甚だ多しと雖も、天子終に厭かず。神仙を求むること此くのごとし。
書き下し
太史公曰く、方士の神仙を言ふ、其の後蓋し益ます甚だし、然れども其の効を睹ざるなり。天子廃せずして之を待つ、冀くは真に遇ふことを。方士の候祠する所、其の験を効せず、費用甚だ多しと雖も、天子終に厭かず。神仙を求むること此くのごとし。
現代語訳
「あり得ない望みに執着し、成果も出ないまま、際限なく資源を注ぎ込む——その空しさを見よ」——武帝の、生涯にわたる神仙への執着を、司馬遷が静かに嘆いた、この篇の結びです。司馬遷は、武帝と方士たちをめぐる、この長い顛末を、こう総括します。「神仙のことを説く方士は、その後も、ますます増える一方だった。しかし、その効き目(効)は、ついに、見られなかった(然無其效)」と。何人もの方士が現れ、何度も約束が交わされたが、不死も、仙人も、ただの一度も、実現しなかったのです。それでも、武帝は、あきらめませんでした。「天子は、(方士を用いることを)やめずに、(次こそはと)期待して、待ち続けた。いつかは、本物の(仙人に)巡り会えることを、願って(冀遇其真)」。そして、司馬遷は、その空しさを、際立たせます。「方士たちが、あちこちで、(仙人を招くための)祭祀を行っても、その効き目は、いっこうに現れず、費やされる費用は、莫大なものであったにもかかわらず、天子は、(それでもなお、)ついに、飽きることが、なかった(費用甚多、然天子終不厭)」。あり得ない望みに、生涯執着し、成果も出ないまま、際限なく、国の富を注ぎ込み続けた——その、あまりの空しさを、司馬遷は、静かな筆致で、嘆いているのです。ここに、あり得ない望みへの執着についての教訓があります。第一に、あり得ない望み(不死、一攫千金、労せずしての大成功)に執着すると、成果が出ないまま、際限なく、資源(お金・時間・労力)を、注ぎ込み続けてしまうということ(費用甚多、終不厭)。「次こそは」という期待が、損切りを、できなくさせる。第二に、どれほど期待し、待ち続けても、根本的にあり得ないもの(其效を睹ず)は、待っても、待っても、実現しないということ。実現の見込みのないものに、「いつかは」と期待し続けるのは、時間と資源の、浪費でしかない。第三に、賢明であることと、(強い願望の前で)冷静な判断を保てることは、別だということ。あの英明な武帝でさえ、この空しい執着から、生涯、抜け出せなかった。組織や人生で、あり得ない望みへの執着が際限なく資源を注ぎ込ませると知ること、実現の見込みのないものに「いつかは」と期待し続けないこと、そして強い願望の前ではどんな賢者も冷静な判断を失いうると自覚すること——武帝の神仙への執着を嘆く司馬遷の結びは、あり得ない望みに囚われることの空しさを、痛切に教えます。