史記 / 孝武本紀
嘗從武安侯飲,坐中有年九十餘老人,少君乃言與其大父游射處,老人為兒時從其大父行,識其處,一坐盡驚。少君見上,上有故銅器,問少君。少君曰:「此器陳於柏寢。」已而案其刻,果齊桓公器。一宮盡駭,以少君為神,數百歲人也。
新字:嘗従武安侯飲,坐中有年九十余老人,少君乃言与其大父游射処,老人為児時従其大父行,識其処,一坐尽驚。少君見上,上有故銅器,問少君。少君曰:「此器陳於柏寝。」已而案其刻,果斉桓公器。一宮尽駭,以少君為神,数百歳人也。
書き下し
嘗て武安侯に従ひて飲む、坐中に年九十余の老人有り、少君乃ち其の大父と游射せし処を言ふ、老人児為りし時其の大父に従ひて行き、其の処を識る、一坐尽く驚く。少君上に見ゆ、上に故き銅器有り、少君に問ふ。少君曰く、「此の器は柏寝に陳ぬ。」と。已にして其の刻を案ずるに、果たして斉の桓公の器なり。一宮尽く駭き、少君を以て神と為し、数百歳の人なりとす。
現代語訳
李少君はあるとき武安侯(田蚡)の酒宴に同席した。座には九十余歳の老人がいたが、李少君はその老人の祖父と一緒に弓を射て遊んだ場所のことを語った。老人は子どもの頃、祖父について行ってその場所を知っていたので、一座の者は皆驚いた。李少君が主上に謁見したとき、主上は古い銅器を持っていて、それについて李少君に尋ねた。李少君は「この器は柏寝(斉の桓公の台の名)に並べてあったものだ」と言った。その後、器の銘文を調べてみると、果たして斉の桓公の器であった。宮中の者は皆驚き、李少君は神であり、数百歳の人だと思った。
解説
李少君が人々の信用を得た二つの逸話です。九十歳を超える老人の祖父と遊んだ場所を言い当て、武帝の持つ古い銅器が斉の桓公のものだと見抜いたことで、宮中の人々は彼を数百歳の神人だと信じました。司馬遷は、前段で李少君が「巧みに言い当てて人を驚かせるのが得意」だったと書いたうえで、この逸話を並べています。老人の子ども時代の記憶や、銅器に刻まれた銘文といった、事前に調べたり推測したりできる情報を、不思議な力の証拠のように見せたとも読める書き方です。しかし当時の人々にとっては、それが何よりの証拠に思えました。印象的な的中が一、二度あると、人はその人物のすべてを信じてしまいがちです。専門家や占いのように見える話に接するとき、何が確かめられた事実で何が演出なのかを見分ける目を持ちたいものです。
関連する章句
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史記 封禅書神君とは、長陵の女子、子の死せるを以て、神を先後宛若に見はす。宛若、之を其の室に祠り、民多く往きて祠る。平原君往きて祠り、其の後子孫以て尊顕なり。今上即位するに及び、則ち厚く礼して之を内中に置きて祠る。其の言を聞くも、其の人を見ずと云ふ。是の時、李少君も亦祠灶・穀道・却老の方を以て上に見え、上之を尊ぶ。少君とは、故の深沢侯の舎人にして、方を主る。其の年及び其の生長を匿し、常に自ら七十と謂ひ、能く物を使ひ、老を却く。其の游ぶや方を以て遍く諸侯にす。妻子無し。人、其の能く物を使ひ及び死せざるを聞き、更々饋遺し、常に金銭・衣食を余す。人皆以為へらく生業を治めずして饒給なりと、又其の何所の人なるかを知らず、愈々信じ、争ひて之に事ふ。少君、資として方を好み、善く巧発奇中を為す。嘗て武安侯に従ひて飲み、坐中に九十余の老人有り。少君乃ち其の大父と游射せし処を言ふ。老人、児たりし時其の大父に従ひ、其の処を識る。一坐尽く驚く。少君、上に見ゆるに、上に故き銅器有り、少君に問ふ。少君曰く、「此の器は斉の桓公の十年に柏寝に陳ねたり」と。已にして其の刻を案ずるに、果して斉の桓公の器なり。一宮尽く駭き、以為へらく少君は神にして、数百歳の人なりと。少君、上に言ひて曰く、「灶を祠れば則ち物を致し、物を致して丹沙は化して黄金と為す可し。黄金成りて以て飲食の器と為せば則ち寿を益し、寿を益して海中の蓬萊の僊者乃ち見る可し。之を見て以て封禅すれば則ち死せず、黄帝是れなり。臣嘗て海上に游び、安期生を見る。安期生は巨棗を食らふ、大いさ瓜の如し。安期生は僊者にして、蓬萊の中に通じ、合へば則ち人に見え、合はざれば則ち隠る」と。是に於て天子始めて親ら灶を祠り、方士を遣はして海に入りて蓬萊の安期生の属を求めしめ、而して丹沙・諸薬の齊を化して黄金と為すことを事とす。居ること之を久しくして、李少君病みて死す。
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史記 孝武本紀少君上に言ひて曰く、「灶を祠れば則ち物を致し、物を致せば而ち丹沙化して黄金と為す可し、黄金成りて以て飲食の器と為せば則ち寿を益し、寿を益せば而ち海中蓬萊の僊者見る可し、之を見て封禅を以てすれば則ち死せず、黄帝是なり。臣嘗て海上に游び、安期生を見る、臣に棗を食らはす、大なること瓜のごとし」と。是に於て天子始めて親ら灶を祠り、方士を遣りて海に入りて蓬萊安期生の属を求む。
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