史記 / 孝武本紀
居久之,李少君病死。天子以為化去不死也,而使黃錘史寬舒受其方。求蓬萊安期生莫能得,而海上燕齊怪迂之方士多相效,更言神事矣。
新字:居久之,李少君病死。天子以為化去不死也,而使黄錘史寛舒受其方。求蓬萊安期生莫能得,而海上燕斉怪迂之方士多相効,更言神事矣。
書き下し
居ること久しくして、李少君病みて死す。天子以て化し去りて死せずと為し、而して黄錘の史寛舒をして其の方を受けしむ。蓬萊の安期生を求むるも能く得る莫し、而して海上燕齊の怪迂の方士多く相ひ效ひ、更に神事を言ふ。
現代語訳
しばらくして、李少君は病んで死んだ。天子は、彼は仙人に化して去ったのであって死んだのではないと考え、黄錘の史寛舒にその術を受け継がせた。蓬萊の安期生を探させたが、見つけることはできなかった。それでも海沿いの燕や齊の地では、怪しげで常識はずれの方士が多く現れて互いに真似をし、次々と神仙のことを説いた。
解説
「都合の悪い事実を認めず、自分の思い込みに合うように解釈してしまう——それが欺瞞から抜け出せない原因だ」——武帝が、方士の死という明白な事実すら、認めなかった一段です。「不死の術」を説いた方士・李少君は、しばらくして——なんと、病気になって、死んでしまいました。「不老不死」を教えていた張本人が、病で死んだのです。これほど明白な、彼の術がインチキであったことの、証拠はありません。普通なら、ここで、「騙されていた」と、目が覚めるはずです。ところが、武帝は、そうではありませんでした。彼は、李少君の死を、こう解釈したのです。「(李少君は、死んだのではない。)(仙人となって)姿を変えて、去っていったのであって、本当に死んだのではないのだ(化去不死也)」と。目の前の、動かぬ事実(少君の死)を、そのまま認めず、自分の「不死はあり得る」という思い込みに、都合よく合うように、歪めて解釈してしまったのです。そして、李少君の方術を、別の者に引き継がせ、なおも仙人探しを続けさせました。当然、仙人など見つかるはずもありません。それどころか、この様子を見て、「(皇帝は、こんなインチキでも信じ込む)」と踏んだ、海辺の、いかがわしい方士たちが、こぞって李少君を真似て、次々と、荒唐無稽な神仙の話を、売り込みに来るようになったのです。ここに、思い込みと現実についての教訓があります。第一に、人は、都合の悪い事実(自分が騙されていたという証拠)を、そのまま認めるのが、つらいために、自分の思い込みに合うように、歪めて解釈してしまいがちだということ(化去不死也)。「不死の術者が死んだ」という、これ以上ない証拠を前にしてなお、武帝は、それを認めなかった。第二に、これは、「これだけ信じ、投じてきたのだから、間違いであるはずがない」という、いわば、引くに引けない心理(サンクコスト)の表れでもあるということ。深く信じ込み、多くを投じたものほど、それが誤りだと認めるのは、難しい。第三に、だからこそ、自分の思い込みに反する、都合の悪い事実こそを、直視する勇気が要るということ。組織や判断で、都合の悪い事実を思い込みに合わせて歪めて解釈しないこと、深く信じ多くを投じたものほど誤りを認めにくいと自覚すること、そして自分の思い込みに反する事実こそ直視する勇気を持つこと——武帝が少君の死を認めなかった逸話は、思い込みから抜け出す難しさを教えます。
この章句が説くこと
孝武帝李少君病死化去不死都合の悪い事実を認めない思い込みに合わせて歪めるサンクコスト
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貞観政要・慎所好貞観二年、太宗侍臣に謂いて曰く、「神仙の事は本と是れ虚妄なり。空しく其の名有るのみ。秦の始皇は分に非ずして愛好し、方士の詐る所と為る。乃ち童男童女数千人を遣わし、其れに随いて海に入り神仙を求めしむ。方士は秦の苛虐を避け、因りて留まりて帰らず。始皇は猶お海側に踟躕(ちちゅう)して以て之を待つ。還りて沙丘に至りて死す。漢の武帝は神仙を求むるが為に、乃ち女を将(もっ)て道術の人に嫁す。事既に験無くんば、便ち誅戮を行う。此の二事に拠らば、神仙は煩わしく妄りに求むべからざるなり」と。
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