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史記 / 項羽本紀

項王曰:「壯士,賜之巵酒。」則與斗巵酒。噲拜謝,起,立而飲之。項王曰:「賜之彘肩。」則與一生彘肩。樊噲覆其盾於地,加彘肩上,拔劍切而㗖之。項王曰:「壯士,能復飲乎?」樊噲曰:「臣死且不避,巵酒安足辭!夫秦王有虎狼之心,殺人如不能舉,刑人如恐不勝,天下皆叛之。懷王與諸將約曰『先破秦入咸陽者王之』。今沛公先破秦入咸陽,豪毛不敢有所近,封閉宮室,還軍霸上,以待大王來。故遣將守關者,備他盜出入與非常也。勞苦而功高如此,未有封侯之賞,而聽細說,欲誅有功之人。此亡秦之續耳,竊為大王不取也。」項王未有以應,曰:「坐。」樊噲從良坐。坐須臾,沛公起如廁,因招樊噲出。沛公已出,項王使都尉陳平召沛公。沛公曰:「今者出,未辭也,為之柰何?」樊噲曰:「大行不顧細謹,大禮不辭小讓。如今人方為刀俎,我為魚肉,何辭為。」於是遂去。乃令張良留謝。良問曰:「大王來何操?」曰:「我持白璧一雙,欲獻項王,玉斗一雙,欲與亞父,會其怒,不敢獻。公為我獻之」張良曰:「謹諾。」當是時,項王軍在鴻門下,沛公軍在霸上,相去四十里。沛公則置車騎,脫身獨騎,與樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持劍盾步走,從酈山下,道芷陽閒行。

新字:項王曰:「壮士,賜之巵酒。」則与斗巵酒。噲拝謝,起,立而飲之。項王曰:「賜之彘肩。」則与一生彘肩。樊噲覆其盾於地,加彘肩上,抜剣切而㗖之。項王曰:「壮士,能復飲乎?」樊噲曰:「臣死且不避,巵酒安足辞!夫秦王有虎狼之心,殺人如不能舉,刑人如恐不勝,天下皆叛之。懐王与諸将約曰『先破秦入咸陽者王之』。今沛公先破秦入咸陽,豪毛不敢有所近,封閉宮室,還軍覇上,以待大王来。故遣将守関者,備他盗出入与非常也。労苦而功高如此,未有封侯之賞,而聴細説,欲誅有功之人。此亡秦之続耳,窃為大王不取也。」項王未有以応,曰:「坐。」樊噲従良坐。坐須臾,沛公起如廁,因招樊噲出。沛公已出,項王使都尉陳平召沛公。沛公曰:「今者出,未辞也,為之柰何?」樊噲曰:「大行不顧細謹,大礼不辞小譲。如今人方為刀俎,我為魚肉,何辞為。」於是遂去。乃令張良留謝。良問曰:「大王来何操?」曰:「我持白璧一双,欲献項王,玉斗一双,欲与亜父,会其怒,不敢献。公為我献之」張良曰:「謹諾。」当是時,項王軍在鴻門下,沛公軍在覇上,相去四十里。沛公則置車騎,脱身独騎,与樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持剣盾歩走,従酈山下,道芷陽閒行。

書き下し

項王曰く、「壮士なり、之に巵酒を賜へ。」と。則ち斗巵酒を与ふ。噲拝謝し、起ちて、立ちながら之を飲む。項王曰く、「之に彘肩を賜へ。」と。則ち一の生の彘肩を与ふ。樊噲其の盾を地に覆せ、彘肩を上に加へ、剣を抜きて切りて之を啗(くら)ふ。項王曰く、「壮士、能く復た飲むか。」と。樊噲曰く、「臣死すら且つ避けず、巵酒安んぞ辞するに足らんや。夫れ秦王虎狼の心有り、人を殺すこと挙ぐる能はざるが如く、人を刑すること勝へざるを恐るるが如し、天下皆之に叛く。懐王諸将と約して曰く『先づ秦を破りて咸陽に入る者は之を王とせん』と。今沛公先づ秦を破りて咸陽に入り、豪毛も敢へて近づく所有らず、宮室を封閉し、軍を霸上に還し、以て大王の来たるを待つ。故に将を遣はして関を守らしむる者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。労苦して功高きこと此くの如し、未だ封侯の賞有らず、而るに細説を聴きて、有功の人を誅せんと欲す。此れ亡秦の続なるのみ、竊かに大王の為に取らざるなり。」と。項王未だ以て応ずる有らず、曰く、「坐せよ。」と。樊噲良に従ひて坐す。坐すること須臾にして、沛公起ちて廁に如き、因りて樊噲を招きて出づ。沛公已に出づ、項王都尉陳平をして沛公を召さしむ。沛公曰く、「今者出づるに、未だ辞せざるなり、之を為すこと柰何。」と。樊噲曰く、「大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず。如今人方に刀俎為り、我は魚肉為り、何ぞ辞することを為さん。」と。是に於て遂に去る。乃ち張良をして留まりて謝せしむ。良問ひて曰く、「大王来たるに何をか操(と)れる。」と。曰く、「我白璧一双を持ちて、項王に献ぜんと欲し、玉斗一双もて、亜父に与へんと欲す、其の怒りに会ひて、敢へて献ぜず。公我が為に之を献ぜよ。」と。張良曰く、「謹みて諾す。」と。是の時に当たりて、項王の軍は鴻門の下に在り、沛公の軍は霸上に在り、相去ること四十里。沛公則ち車騎を置き、身を脱して独り騎し、樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等四人と剣盾を持ちて歩走し、酈山の下より、芷陽に道して間行す。

現代語訳

項王は言った。「壮士だ。大杯の酒を与えよ」。そこで一斗入りの大杯の酒が与えられた。樊噲は拝礼して礼を述べ、立ち上がって立ったままそれを飲み干した。項王は言った。「豚の肩肉を与えよ」。そこで生の豚の肩肉が一本与えられた。樊噲は盾を地面に伏せて置き、その上に豚の肩肉を載せ、剣を抜いて切って食らった。項王は言った。「壮士よ、もっと飲めるか」。樊噲は言った。「私は死ぬことさえ避けはしない。大杯の酒ぐらい、どうして断ろうか。そもそも秦王は虎や狼のような心を持ち、人を殺すことは殺し尽くせないのを恐れるかのようで、人を刑罰にかけることはかけきれないのを恐れるかのようだった。だから天下は皆これに背いた。懐王は将たちと約束して『先に秦を破って咸陽に入った者を王とする』と言われた。いま沛公は先に秦を破って咸陽に入りながら、毛筋ほどのものにも手を触れず、宮殿を封鎖し、軍を霸上に引き返させて大王のお越しを待っていた。将を派遣して関を守らせたのは、他の盗賊の出入りと不測の事態に備えたからだ。これほど苦労して功績が高いのに、まだ諸侯に封じる恩賞もない。それどころか、つまらぬ者の告げ口を聞いて、功績ある人を誅殺しようとしている。これでは滅んだ秦の二の舞にすぎない。ひそかに思うに、大王のためにならないことだ」。項王は答える言葉もなく、「座れ」と言った。樊噲は張良の隣に座った。座ってしばらくすると、沛公は立ち上がって厠に行き、そのついでに樊噲を招いて外に出た。沛公が出てしまうと、項王は都尉の陳平に命じて沛公を呼びに行かせた。沛公は言った。「いま出てくるときに、まだ別れの挨拶をしていない。どうしたものか」。樊噲は言った。「大きな事をなす者は細かな慎みにこだわらず、大きな礼を行う者は小さな遠慮など気にしない。いま相手はまさに包丁とまな板であり、我々は魚や肉だ。どうして挨拶などしていられようか」。こうしてついに立ち去ることにした。そこで張良を残して詫びを言わせることにした。張良は尋ねた。「大王は何を手土産にお持ちになったのか」。沛公は言った。「白い璧(輪形の玉)一対を項王に献上しようと思い、玉の酒器一対を亜父に贈ろうと思っていたが、彼らの怒りに出くわして、差し出せなかった。君が私に代わってこれを献上してくれ」。張良は「謹んで承知した」と言った。このとき、項王の軍は鴻門のふもとにあり、沛公の軍は霸上にあって、互いに四十里離れていた。沛公は車や騎兵をその場に残し、身一つで一人馬に乗り、樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信ら四人は剣と盾を持って徒歩で走り、酈山のふもとから芷陽を通る抜け道を進んだ。

解説

鴻門の会の山場です。樊噲は一斗の酒を立ったまま飲み干し、生の豚肉を盾の上で切って食らう豪胆さで項羽を圧倒し、さらに劉邦の功績と潔白を堂々と弁じました。「功労ある者を告げ口で誅するのは滅んだ秦の続きだ」という指摘に、項羽は返す言葉もありませんでした。その後、劉邦は厠に立つふりをして脱出します。「大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず」「人は刀俎為り、我は魚肉為り」は、樊噲が劉邦の迷いを断ち切った言葉として今も使われます。礼儀を気にして別れの挨拶をためらう劉邦に、命がかかった場面で体面にこだわるなと説いたのです。大局を前に小さな礼儀や体裁に縛られてはならない、しかしその後始末は張良に託して礼を尽くす。この両面の対応が劉邦を救いました。

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