説苑 / 雜言
道吾問之夫子:「多所知,無所知,其身孰善者乎?」對曰:「無知者,死人屬也;雖不死,累人者必眾甚矣。然多所知者好,其用心也多;所知者出於利人即善矣,出於害人即不善也。」道吾曰:「善哉!」
新字:道吾問之夫子:「多所知,無所知,其身孰善者乎?」対曰:「無知者,死人属也;雖不死,累人者必衆甚矣。然多所知者好,其用心也多;所知者出於利人即善矣,出於害人即不善也。」道吾曰:「善哉!」
書き下し
道吾之を夫子に問う、「多く知る所有ると、知る所無きと、其の身孰れか善き者ぞ」と。対えて曰く、「知る所無き者は、死人の属なり。死せずと雖も、人を累わす者必ず衆きこと甚だし。然れども多く知る所有る者は好し、其の心を用うるや多し。知る所の人を利するより出づれば即ち善なり、人を害するより出づれば即ち不善なり」と。道吾曰く、「善いかな」と。
現代語訳
道吾が孔子に尋ねた。「多くのことを知っている人と、何も知らない人とでは、どちらがその身にとって善いのでしょうか」と。孔子は答えた。「何も知らない者は、死人の仲間のようなものだ。死んではいなくても、周りの人に迷惑をかけることが必ず非常に多い。それに対して多くのことを知っている者はよい、その心の働かせ方が多方面に及んでいるからだ。ただし、その知っていることが人を利するために用いられれば善いことになり、人を害するために用いられれば善くないことになる」と。道吾は「なるほど、それは善いお言葉です」と言った。
解説
知識の量そのものを単純に善悪で評価するのではなく、孔子は無知が周囲に迷惑をかける害悪であることを認めつつ、豊かな知識もまたそれが人を利するために使われるか、害するために使われるかという用い方次第で善にも不善にもなると説く。現代社会においても、専門知識や情報の多寡そのものよりも、それをどのような目的――他者への貢献か、私利や害意か――のために使うかという倫理的な選択の方が、その人の真の価値を決定づける。この章の教訓は、知は力であると同時に中立的な道具にすぎず、その方向づけこそが問われるべきだという、知識と倫理の関係についての基本的な指針である。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
知の用い方利人と害人倫理
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説苑・辨物子貢孔子に問う、「死人は知る有りや知る無きや。」孔子曰わく、「吾死者に知る有りと言わんと欲すれば、孝子順孫の生を妨げて以て死を送らんことを恐る。知る無しと言わんと欲すれば、不孝の子孫の棄てて葬らざらんことを恐る。賜(し)死人の知る有りて将(は)た知る無きを知らんと欲するか。死して徐(おもむろ)に自ら之を知らん、猶お未だ晩からざるなり。」
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論語・為政篇子曰く、由よ、女(なんじ)に之を知るを誨えんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり。
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『童子問』卷中問ふ。孟子何ぞ専ら仁義を主として、智に於ては或いは之を悪むこと有るか。曰く、凡そ高きに過ぎ深きに過ぎ、大を好み難を喜び、隠を索め怪を行ひ、邪説暴行、与に堯舜の道に入るべからざる者は、皆智を過用するが故なり。荘子三十三篇、大蔵五千函、其の他諸子百家、挙げて皆一の智の字の誤る所と為る。豈に畏るべきの甚だしきに非ずや。孔子曰く、之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり、と。又曰く、君子は其の知らざる所に於て、蓋し闕如たり、と。孟子も亦曰く、堯舜の智にして物に遍からず、先務を急にす、と。此れ所謂禹の水を行る、其の事無き所を行ふなり。孟子嘗て伯夷・伊尹・柳下恵の孔子と同じからざる所以を論じて曰く、智は譬へば則ち巧なり、聖は譬へば則ち力なり。由ほ百歩の外に射るがごときなり。其の至るは爾の力なり、其の中るは爾の力に非ざるなり、と。又曰く、智者の如きも亦其の事無き所を行はば、則ち智も亦大なり、と。孟子も亦豈に智を廃せんや。其の智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。孔子も亦曰く、知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩、と。然らば則ち君子の智を用ふる、其の取捨する所、知るべし。