伝習録 / 陳九川録
先生日:「聖人亦是『學知』,眾人亦是『生知』。」問曰:「何如?」曰:「這良知人人皆有,聖人只是保全無些障蔽,兢兢業業,亹亹翼翼,自然不息,便也是學;只是生的分數多,所以謂之『生知、安行』。眾人自孩提之童,莫不完具此知,只是障蔽多;然本體之知自難泯息,雖問學克冶,也只憑他;只是學的分數多,所以謂之『學知、利行』。」
新字:先生日:「聖人亦是『学知』,衆人亦是『生知』。」問曰:「何如?」曰:「這良知人人皆有,聖人只是保全無些障蔽,兢兢業業,亹亹翼翼,自然不息,便也是学;只是生的分数多,所以謂之『生知、安行』。衆人自孩提之童,莫不完具此知,只是障蔽多;然本体之知自難泯息,雖問学克冶,也只憑他;只是学的分数多,所以謂之『学知、利行』。」
書き下し
先生曰く、「聖人も亦た是れ『学知』なり。衆人も亦た是れ『生知』なり」と。問いて曰く、「何如」と。曰く、「這の良知は人人皆な有す。聖人は只だ是れ保全して些(すこ)しの障蔽も無く、兢兢業業、亹亹翼翼として、自然に息まず。便ち也(また)是れ学なり。只だ是れ生の分数、多し。所以に之を『生知・安行』と謂う。衆人は孩提の童より、此の知を完具せざる莫し。只だ是れ障蔽、多し。然れども本体の知は自ら泯息し難し。問学克治すと雖も、也(また)只だ他に憑る。只だ是れ学の分数、多し。所以に之を『学知・利行』と謂う」と。
現代語訳
先生は言われた。「聖人もまた『学んで知る』者だ。常人もまた『生まれつき知る』者だ」。「どういうことですか」と問うた。「この良知は誰もが持つ。聖人はただ保全して少しの蔽いもなく、慎み深く、たゆまず努める。それも学だ。ただ生まれつきの分が多い。だから『生知・安行』という。常人は幼児の時から、この知を完全に備えている。ただ蔽いが多い。しかし本体の知は消せない。学び克つといっても、それに頼るだけだ。ただ学ぶ分が多い。だから『学知・利行』という」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・黄省曾録問う、「聖人の生知・安行は、是れ自然の的なり。如何ぞ甚(なん)の功夫か有らん」と。先生曰く、「知・行の二字は、即ち是れ功夫なり。但だ浅深難易の殊有るのみ。良知は原と是れ精精明明的なり。親に孝せんと欲するが如きは、生知・安行的は只だ是れ此の良知に依りて実落に孝を尽くすのみ。学知・利行の者は只だ是れ時時に省覚し、務めて此の良知に依りて孝を尽くさんことを要するのみ。困知・勉行の者に至りては、蔽錮すること已に深し。此の良知に依りて去きて孝せんことを要すと雖も、又た私欲の阻む所と為る。是を以て能わず。必ず須らく人一たびせば己は百たびし、人十たびせば己は千たびするの功を加えて、方に能く此の真知に依りて以て其の孝を尽くすべし。聖人は是れ生知・安行なりと雖も、然れども其の心は敢えて自ら是とせず。肯えて困知・勉行の功夫を做す。困知・勉行的は却って生知・安行の事を做さんことを思量せんと要す。怎生(いかん)ぞ成し得んや」と。
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「『惟だ天下の聖のみ、能く聡明睿知たりと為す』。旧に看るに何等か玄妙なる。今、看来たるに、原と是れ人人自ら有する的なり。耳は原と是れ聡、目は原と是れ明、心思は原と是れ睿知なり。聖人は只だ是れ之を一に能くするのみ。能くする処は正に是れ良知なり。衆人の能わざるは、只だ是れ個の知を致さざるなり。何等か明白簡易なる」と。
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伝習録・陳九川録「聖人は知らざる所無しとは、只だ是れ個の天理を知るなり。能わざる所無しとは、只だ是れ個の天理を能くするなり。聖人は本体、明白なり。故に事事、個の天理の在る所を知りて、便ち去きて個の天理を尽くす。是れ本体、明らかなる後に、却って天下の事物に於て都て便ち知り得、便ち做し得来たるに非ざるなり。天下の事物、名物度数、草木鳥獣の類の如きは、其の煩に勝えず。聖人も須らく是れ本体、明らかならんとするも、亦た何に縁りてか能く尽く知り得んや。但だ必ずしも知らざる的は、聖人、自ら知るを求むるを消(もち)いず。其の当に知るべき所の的は、聖人、自ら能く人に問う。『子、太廟に入り、事毎に問う』の類の如し。先儒は『知ると雖も亦た問うは、敬謹の至りなり』と謂う。此の説は通ずべからず。聖人は礼楽名物に於て、必ずしも尽くは知らず。然れども他、一個の天理を知り得れば、便ち自ら許多の節文度数有りて出で来たる。知らずして能く問うも、亦た即ち是れ天理節文の在る所なり」と。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「聡明睿知は果たして質か。仁義礼智は果たして性か。喜怒哀楽は果たして情か。私欲客気は果たして一物か、二物か。古の才の若き、子房・仲舒・叔度・孔明・文中・韓・范の諸公の如きは、徳業表著し、皆な良知の中より発する所なり。而して之を道を聞く者と謂うを得ざるは、果たして何に在るか。苟も此れ特に生質の美なるのみと曰わば、則ち生知・安行の者は、学知・困勉の者に愈(まさ)らざらんや。愚意、竊かに云う、諸公は道を見ること偏なりと謂わば則ち可なり。全く聞く無しと謂わば則ち恐らくは後儒の記誦訓詁を崇尚するの過ならん。然るや否や」と。性は一なるのみ。仁・義・礼・知は、性の性なり。聡・明・睿・知は、性の質なり。喜・怒・哀・楽は、性の情なり。私欲・客気は、性の蔽なり。質に清濁有り。故に情に過不及有りて、蔽に浅深有るなり。私欲・客気は、一病両痛にして、二物に非ざるなり。張・黄・諸葛及び韓・范の諸公は、皆な天質の美にして、自ら道の妙に暗合すること多し。未だ尽くは之を学を知ると謂うべからず、尽くは之を道を聞くと謂うべからずと雖も、然れども亦た自ら其の学有りて、道を違ること遠からざる者なり。其れをして学を聞き道を知らしめば、即ち伊・傅・周・召ならん。夫れ良知は即ち是れ道なり。良知の人心に在るは、但だ聖賢のみならず、常人と雖も亦た此くの如くならざる無し。若し物欲の牽蔽する有る無くんば、但だ真知の発用流行に循い将ち去らば、即ち道に非ざる無し。但だ常人に在りては多く物欲に牽蔽せられ、良知に循い得る能わず。数公の如き者は、天質、既に自ら清明にして、自ら少く物欲の之を牽蔽する為れば、則ち其の良知の発用流行する処、自然に是れ多く、自然に道を違ること遠からず。学者は此の良知に循うを学ぶのみ。之を学を知ると謂うは、只だ是れ専ら良知に循うを学ぶに在るを知るなり。数公は未だ専ら良知の上に功を用うるを知らずして、或いは多岐に汎濫し、影響に疑迷す。是を以て或いは離れ或いは合して未だ純ならず。若し知り得る時は、便ち是れ聖人ならん。
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伝習録・陳九川録虔に在りて于中・謙之と同じく侍る。先生曰く、「人の胸中には各々個の聖人有り。只だ自ら信ずること及ばずして、都て自ら埋め倒せり」と。因りて于中を顧みて曰く、「爾の胸中は原と是れ聖人なり」と。于中、起ちて敢えて当たらず。先生曰く、「此れ是れ爾の自家の有する的なり。如何ぞ推さんことを要す」と。于中、又た曰く、「敢えてせず」と。先生曰く、「衆人、皆な之を有す。況んや于中に在りてをや。却って何の故に謙し起こる。謙も亦た得ず」と。于中、乃ち笑いて受く。又た論ず、「良知の人に在るは、爾の如何なるに随うも、泯滅する能わず。盗賊と雖も、亦た自ら盗を為すに当たらざるを知る。他を喚びて賊と作せば、他、還た忸怩たり」と。于中曰く、「只だ是れ物欲、遮蔽するのみ。良心は内に在りて、自ら失う会(べ)からず。雲の自ら日を蔽うも、日、何ぞ嘗て失い了らんや」と。先生曰く、「于中の此くの如く聡明なるは、他人、見ること此に及ばず」と。
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伝習録・陳九川録問う、「『修道説』に『性に率うを之れ道と謂う』と言うは、聖人の分上の事に属す。『道を修むるを之れ教と謂う』は、賢人の分上の事に属す」と。先生曰く、「衆人も亦た性に率うなり。但だ性に率うは聖人の分上に在りて較(や)や多し。故に『性に率うを之れ道と謂う』は聖人の事に属す。聖人も亦た道を修むるなり。但だ道を修むるは賢人の分上に在りて多し。故に『道を修むるを之れ教と謂う』は賢人の事に属す」と。又た曰く、「『中庸』一書は、大抵、皆な是れ道を修むるの事を説く。故に後面、凡そ君子を説き、顔淵を説き、子路を説くは、皆な是れ能く道を修むる者なり。小人を説き、賢知・愚不肖を説き、庶民を説くは、皆な是れ道を修むる能わざる者なり。其の他、舜・文・周公・仲尼の至誠至聖の類を言うは、則ち又た聖人の自ら能く道を修むる者なり」と。
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