説苑 / 雜言
子貢問曰:「君子見大水必觀焉,何也?」孔子曰:「夫水者,君子比德焉。遍予而無私,似德;所及者生,似仁;其流卑下句倨,皆循其理,似義;淺者流行,深者不測,似智;其赴百仞之谷不疑,似勇;綿弱而微達,似察;受惡不讓,似包蒙;不清以入,鮮潔以出,似善化;至量必平,似正;盈不求概,似度;其萬折必東,似意。是以君子見大水觀焉爾也。」「夫智者何以樂水也?」曰:「泉源潰潰,不釋晝夜,其似力者;循理而行,不遺小間,其似持平者;動而之下,其似有禮者;赴千仞之壑而不疑,其似勇者;障防而清,其似知命者;不清以入,鮮潔以出,其似善化者;眾人取平品類以正,萬物得之則生,失之則死,其似有德者;淑淑淵淵,深不可測,其似聖者。通潤天地之間,國家以成,是知之所以樂水也。詩云:『思樂泮水,薄採其茆;魯侯戾止,在泮飲酒。』樂水之謂也。」「夫仁者何以樂山也?」曰:「夫山巃嵷●嶵,萬民之所觀仰。草木生焉,眾木立焉,飛禽萃焉,走獸休焉,寶藏殖焉,奇夫息焉,育群物而不倦焉,四方並取而不限焉。出雲風通氣于天地之間,國家以成,是仁者所以樂山也。詩曰:『太山巖巖,魯侯是瞻。』樂山之謂矣。」
新字:子貢問曰:「君子見大水必観焉,何也?」孔子曰:「夫水者,君子比徳焉。遍予而無私,似徳;所及者生,似仁;其流卑下句倨,皆循其理,似義;浅者流行,深者不測,似智;其赴百仞之谷不疑,似勇;綿弱而微達,似察;受悪不譲,似包蒙;不清以入,鮮潔以出,似善化;至量必平,似正;盈不求概,似度;其万折必東,似意。是以君子見大水観焉爾也。」「夫智者何以楽水也?」曰:「泉源潰潰,不釈昼夜,其似力者;循理而行,不遺小間,其似持平者;動而之下,其似有礼者;赴千仞之壑而不疑,其似勇者;障防而清,其似知命者;不清以入,鮮潔以出,其似善化者;眾人取平品類以正,万物得之則生,失之則死,其似有徳者;淑淑淵淵,深不可測,其似聖者。通潤天地之間,国家以成,是知之所以楽水也。詩云:『思楽泮水,薄採其茆;魯侯戻止,在泮飲酒。』楽水之謂也。」「夫仁者何以楽山也?」曰:「夫山巃嵷●嶵,万民之所観仰。草木生焉,眾木立焉,飛禽萃焉,走獣休焉,宝蔵殖焉,奇夫息焉,育群物而不倦焉,四方並取而不限焉。出雲風通気于天地之間,国家以成,是仁者所以楽山也。詩曰:『太山巖巖,魯侯是瞻。』楽山之謂矣。」
書き下し
子貢問いて曰く、「君子大水を見れば必ず観る、何ぞや」と。孔子曰く、「夫れ水は、君子徳に比す。遍く予えて私無き、徳に似たり。及ぼす所生ずる、仁に似たり。其の流れ卑下句倨、皆其の理に循う、義に似たり。浅き者は流行し、深き者は測られず、智に似たり。其の百仞の谷に赴きて疑わざる、勇に似たり。綿弱にして微達す、察に似たり。悪を受けて讓らざる、包蒙に似たり。清からずして以て入り、鮮潔にして以て出づる、善化に似たり。至量必ず平らかなる、正に似たり。盈つれども概を求めざる、度に似たり。其の万折必ず東す、意に似たり。是を以て君子大水を見れば観るのみ」と。「夫れ智者は何を以て水を楽しむや」と。曰く、「泉源潰潰として、昼夜を釈かず、其れ力有るに似たり。理に循いて行き、小間を遺さざる、其れ持平に似たり。動きて下に之く、其れ礼有るに似たり。千仞の壑に赴きて疑わざる、其れ勇に似たり。障防して清き、其れ命を知るに似たり。清からずして以て入り、鮮潔にして以て出づる、其れ善化に似たり。衆人平を取りて品類正しく、万物之を得れば則ち生じ、之を失えば則ち死す、其れ徳有るに似たり。淑淑淵淵として、深く測る可からざる、其れ聖に似たり。天地の間に通潤し、国家以て成る、是れ知の水を楽しむ所以なり。詩に云う、『泮水を思い楽しみ、薄く其の茆を採る。魯侯戻り止まり、泮に在りて酒を飲む』と。水を楽しむの謂いなり」と。「夫れ仁者は何を以て山を楽しむや」と。曰く、「夫れ山は巃嵷●嶵として、万民の観仰する所なり。草木焉に生じ、衆木焉に立ち、飛禽焉に萃まり、走獣焉に休み、宝蔵焉に殖え、奇夫焉に息い、群物を育みて倦まず、四方並び取れども限らず。雲風を出だして天地の間に気を通じ、国家以て成る、是れ仁者の山を楽しむ所以なり。詩に曰く、『太山巖巖として、魯侯是れ瞻る』と。山を楽しむの謂いなり」と。
現代語訳
子貢が尋ねた。「君子は大きな水を見ると必ずじっと眺め入りますが、それはなぜですか」と。孔子は答えた。「そもそも水というものは、君子が自らの徳になぞらえるものである。あまねく分け与えて私心がないのは、徳に似ている。その恵みが及ぶところに命が生まれるのは、仁に似ている。その流れが低きに下り、曲がりくねりながらも、すべて道理に従っているのは、義に似ている。浅い所は勢いよく流れ、深い所は測り知れないのは、智に似ている。百仞もの深い谷に向かって流れ落ちてもためらわないのは、勇に似ている。柔らかくかそけくありながら、あらゆる隙間にまで行き渡るのは、明察に似ている。汚れを受け入れても拒まないのは、包み込む度量に似ている。濁ったまま流れ入り、清らかに澄んで流れ出るのは、善く人を感化することに似ている。水位が最終的には必ず水平になるのは、正しさに似ている。満ちてもあふれを均そうとしないのは、節度に似ている。幾度も曲がりながらも必ず東へと向かうのは、志を貫くことに似ている。だから君子は大きな水を見ると、じっと見入るのである」と。「では知者はなぜ水を楽しむのですか」と尋ねると、孔子は答えた。「泉の源はこんこんと湧き出て、昼も夜も休むことがない、それは力強さに似ている。道理に従って流れ、小さな隙間さえも見逃さない、それは公平を保つことに似ている。動いて低い方へと向かう、それは礼をわきまえていることに似ている。千仞の谷底に向かってもためらわない、それは勇気に似ている。せき止められればそこで澄む、それは天命を知ることに似ている。濁ったまま流れ入り、清らかに澄んで流れ出る、それは善く人を感化することに似ている。多くの人々が水準を取って万物の是非を正し、万物はこれを得れば生き、これを失えば死ぬ、それは徳を備えていることに似ている。深く静かにたたえられて、その深さを測り知ることができない、それは聖なることに似ている。天地の間をあまねく潤し、国家はこれによって成り立つ、これが知者が水を楽しむ理由である。詩経に『泮水のほとりを思い楽しみ、そこに生えるじゅんさいを摘む。魯の殿様がお越しになり、泮水のほとりで酒を召し上がる』とある。これは水を楽しむということを言っているのだ」と。「では仁者はなぜ山を楽しむのですか」と尋ねると、孔子は答えた。「そもそも山は高く険しくそびえ立ち、万民が仰ぎ見る対象である。草木はそこに生い茂り、多くの木々はそこに立ち並び、飛ぶ鳥はそこに群れ集まり、走る獣はそこで憩い、宝となる鉱物資源はそこで育まれ、優れた人物もそこで心を休め、あらゆる生き物を育んで飽きることがなく、四方から人々が資源を採り続けても限りが尽きることがない。雲や風を生み出して天地の間に気を通わせ、国家はこれによって成り立つ、これが仁者が山を楽しむ理由である。詩経に『泰山は高く険しくそびえ立ち、魯の殿様はこれを仰ぎ見る』とある。これは山を楽しむということを言っているのだ」と。