説苑 / 雜言
孔子曰:「不知其子,視其所友;不知其君,視其所使。」又曰:「與善人居,如入蘭芷之室,久而不聞其香,則與之化矣;與惡人居,如入鮑魚之肆,久而不聞其臭,亦與之化矣。故曰:丹之所藏者赤,烏之所藏者黑。君子慎所藏。」
新字:孔子曰:「不知其子,視其所友;不知其君,視其所使。」又曰:「与善人居,如入蘭芷之室,久而不聞其香,則与之化矣;与悪人居,如入鮑魚之肆,久而不聞其臭,亦与之化矣。故曰:丹之所蔵者赤,烏之所蔵者黒。君子慎所蔵。」
書き下し
孔子曰く、「其の子を知らずんば、其の友とする所を視よ。其の君を知らずんば、其の使う所を視よ」と。又曰く、「善人と居るは、蘭芷の室に入るが如し、久しくして其の香を聞かざるは、則ち之と化すればなり。悪人と居るは、鮑魚の肆に入るが如し、久しくして其の臭を聞かざるは、亦之と化すればなり。故に曰く、丹の蔵する所は赤く、烏の蔵する所は黒し。君子は蔵する所を慎む」と。
現代語訳
孔子は言った。「その子供の人柄が分からなければ、その友人としている相手を見よ。その君主の人柄が分からなければ、その用いている家臣を見よ」と。またこうも言った。「善人とともに過ごすことは、蘭や芷(かおり草)を置いた部屋に入るようなものだ。長くいるとその香りに気づかなくなるのは、自分自身がその香りに同化してしまうからである。悪人とともに過ごすことは、塩漬けの魚を売る店に入るようなものだ。長くいるとその臭いに気づかなくなるのは、これもまた自分自身がその臭いに同化してしまうからである。だから言うのだ。朱をしまっておく場所は赤く染まり、墨をしまっておく場所は黒く染まる。君子は自分が何をしまい込み、何に身を置くかを慎むのだ」と。
解説
人の内面は直接見えなくとも、その人が誰と親しんでいるか、誰を用いているかを見れば自ずと知れるという観察眼と、香り高い部屋にいれば自分も香り、悪臭の店にいれば自分も臭うという同化の比喩を組み合わせ、孔子は人が環境や交友関係によって知らぬ間に染まっていく様を鮮やかに描く。現代においても、身を置く職場やコミュニティの空気に、当人が気づかぬうちに感化されていくことは日常的に起こる。この章の教訓は、他人を見極める際には交友関係を手がかりにできると同時に、自分自身についても、今どんな部屋に身を置いているかを絶えず自覚し、選び直す慎重さが必要だということである。
この章句が説くこと
朱に交われば環境の感化交友の見極め
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