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荀子 / 性悪篇

繁弱、鉅黍古之良弓也;然而不得排檠則不能自正。桓公之蔥,太公之闕,文王之錄,莊君之曶,闔閭之干將、莫邪、鉅闕、辟閭,此皆古之良劍也;然而不加砥厲則不能利,不得人力則不能斷。驊騮、騹驥、纖離、綠耳,此皆古之良馬也;然而必前有銜轡之制,後有鞭策之威,加之以造父之駛,然後一日而致千里也。夫人雖有性質美而心辯知,必將求賢師而事之,擇良友而友之。得賢師而事之,則所聞者堯舜禹湯之道也;得良友而友之,則所見者忠信敬讓之行也。身日進於仁義而不自知也者,靡使然也。今與不善人處,則所聞者欺誣詐偽也,所見者汙漫淫邪貪利之行也,身且加於刑戮而不自知者,靡使然也。傳曰:「不知其子視其友,不知其君視其左右。」靡而已矣!靡而已矣!

新字:繁弱、鉅黍古之良弓也;然而不得排檠則不能自正。桓公之蔥,太公之闕,文王之録,荘君之曶,闔閭之干将、莫邪、鉅闕、辟閭,此皆古之良剣也;然而不加砥厲則不能利,不得人力則不能断。驊騮、騹驥、繊離、綠耳,此皆古之良馬也;然而必前有銜轡之制,後有鞭策之威,加之以造父之駛,然後一日而致千里也。夫人雖有性質美而心辯知,必将求賢師而事之,択良友而友之。得賢師而事之,則所聞者堯舜禹湯之道也;得良友而友之,則所見者忠信敬譲之行也。身日進於仁義而不自知也者,靡使然也。今与不善人処,則所聞者欺誣詐偽也,所見者汙漫淫邪貪利之行也,身且加於刑戮而不自知者,靡使然也。伝曰:「不知其子視其友,不知其君視其左右。」靡而已矣!靡而已矣!

書き下し

繁弱(はんじゃく)・鉅黍(きょしょ)は古の良弓なり。然り而して排檠(はいけい)を得ざれば則ち自ら正しき能わず。桓公の葱(そう)、太公の闕(けつ)、文王の録(ろく)、荘君の曶(こつ)、闔閭(こうりょ)の干将(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)、此れ皆(みな)古の良剣なり。然り而して砥厲(しれい)を加えざれば則ち利(と)き能わず、人力を得ざれば則ち断つ能わず。驊騮(かりゅう)・騹驥(きき)・纖離(せんり)・緑耳(りょくじ)、此れ皆古の良馬なり。然り而して必ず前に銜轡(かんぴ)の制有り、後に鞭策(べんさく)の威有り、之に加うるに造父(ぞうほ)の駛(はし)らしむるを以てして、然る後に一日にして千里を致すなり。夫れ人は性質美にして心は辯知(べんち)なりと雖(いえど)も、必ず將(まさ)に賢師を求めて之に事(つか)え、良友を択(えら)びて之を友とせんとす。賢師を得て之に事うれば、則ち聞く所の者は堯舜禹湯(ぎょうしゅんうとう)の道なり。良友を得て之を友とすれば、則ち見る所の者は忠信敬讓(ちゅうしんけいじょう)の行いなり。身は日に仁義に進みて自ら知らざる者は、靡(び)の然らしむるなり。今不善の人と処(お)らば、則ち聞く所の者は欺誣詐偽(ぎぶさぎ)なり、見る所の者は汙漫淫邪貪利(おまんいんじゃたんり)の行いなり。身は且(まさ)に刑戮(けいりく)を加えられんとして自ら知らざる者は、靡の然らしむるなり。伝に曰く、「其の子を知らざれば其の友を視(み)よ、其の君を知らざれば其の左右を視よ」と。靡のみ、靡のみ。

現代語訳

繁弱や鉅黍は、古の名弓である。しかしそれでも、弓を整える矯め具がなければ、自分だけでは正しい形を保てない。桓公の葱、太公の闕、文王の録、荘君の曶、闔閭の干将・莫邪・鉅闕・辟閭、これらはみな古の名剣である。しかしそれでも、砥石をかけなければ切れ味は出ず、人の力を得なければ断つことはできない。驊騮・騹驥・纖離・緑耳、これらはみな古の名馬である。しかしそれでも、前にはくつわと手綱の制御があり、後ろには鞭の威力があり、そこへ名御者の造父が走らせてはじめて、一日に千里を駆けることができるのだ。人もまた、たとえ生まれつきの資質が優れ、心が聡明であったとしても、必ずすぐれた師を求めて仕え、よい友を選んで友とすべきである。すぐれた師を得て仕えれば、耳にするのは堯・舜・禹・湯の道である。よい友を得て友とすれば、目にするのは忠信と敬讓の行いである。そうして日ごとに仁義へと進みながら、自分ではそれと気づかない。染まっていくということが、そうさせるのである。今もし善からぬ人と共に過ごせば、耳にするのは欺きといつわりであり、目にするのは汚らわしく淫らで利をむさぼる行いである。そうして刑罰を受ける身になろうとしながら、自分ではそれと気づかない。染まっていくということが、そうさせるのである。古い言い伝えに言う、「その子の人となりを知りたければ、その友を見よ。その君主を知りたければ、その側近を見よ」と。すべては染まることなのだ、すべては染まることなのだ。

解説

性悪篇の締めくくりであり、実践への着地点です。名弓も矯め具がなければ形を保てず、名剣も研がなければ切れず、名馬も手綱と鞭と名御者があってはじめて千里を走る。どれほど優れた素材でも、それを生かす外からの手当てが要るという一貫した主張が、ここで畳みかけられます。そして人間の場合、その手当てにあたるのが「賢師」と「良友」です。よい師に仕えれば聖王の道が耳に入り、よい友を持てば忠信と敬讓の行いが目に入る。そうして知らぬ間に仁義へ進んでいく。この「靡」——染まる、という一字が要です。逆に善からぬ人と過ごせば、やはり気づかぬうちに染まって身を滅ぼす。人は環境に染まる生き物だからこそ、誰といるかを自分で選ばなければなりません。意志を鍛えるより先に、付き合う相手を選ぶ。荀子の最後の助言は、驚くほど実用的です。

この一句を、あなたの毎日に。

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