説苑 / 雜言
孔子曰:「不觀於高岸,何以知顛墜之患;不臨深淵,何以知沒溺之患;不觀於海上,何以知風波之患。失之者其不在此乎?士慎三者,無累於人。」
新字:孔子曰:「不観於高岸,何以知顛墜之患;不臨深淵,何以知没溺之患;不観於海上,何以知風波之患。失之者其不在此乎?士慎三者,無累於人。」
書き下し
孔子曰く、「高岸を観ざれば、何を以てか顛墜の患いを知らん。深淵に臨まざれば、何を以てか没溺の患いを知らん。海上を観ざれば、何を以てか風波の患いを知らん。之を失う者は其れ此に在らざらんや。士は三者を慎めば、人に累せらるる無し」と。
現代語訳
孔子は言った。「高い崖を見たことがなければ、どうして転落する危険を知ることができようか。深い淵に臨んだことがなければ、どうして溺れる危険を知ることができようか。海上を見たことがなければ、どうして風波の危険を知ることができようか。人が身を誤るのは、まさにこうした危険を実感として知らないことにあるのではないか。士たる者がこの三つのことに慎重であれば、人から災いを受けることはない」と。
解説
高い崖・深い淵・荒れる海という具体的な危険の実例を挙げながら、孔子は危険を実感として知らない者ほど身を誤りやすいと説く。現代の仕事や人生においても、実際に痛い目を見たり具体的な失敗例を知ったりしない限り、リスクの実感が伴わず、油断から思わぬ災いを招くことは多い。この章の教訓は、危険を軽視せず、他者の失敗例や過去の教訓から学ぶことで、自らが同じ淵に落ちる前にその深さを知っておくという、慎重さと想像力の重要性を静かに説いている点にある。
この章句が説くこと
慎重さ危機の実感備え
関連する章句
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「仁なれば則ち榮え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを惡んで不仁に居るは、是れ猶ほ濕を惡んで下きに居るがごときなり。如し之を惡まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し。賢者位に在り、能者職に在り、國家閒暇なりとせん。是の時に及びて其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之を畏れん。詩に云う、『天の未だ陰雨せざるに迨(およぶ)んで、彼の桑土を徹(とる)り、牖(ユウ)戶を綢繆す。今此の下民、敢て予を侮どること或らんや。』孔子曰く、『此の詩を為りし者は、其れ道を知れるか。』能く其の國家を治めば、誰か敢て之を侮らん。今國家閒暇なりとせん。是の時に及んで般樂怠敖せば、是れ自ら禍を求むるなり。禍ᐻは己自り之を求めざる者無し。詩に云う『永く言、命を配し、自ら多ᐻを求む。』太甲に曰く、『天の作せる孼は猶ほ違く可し。自ら作せる孼は活く可からず。』此を之れ謂うなり。」
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