説苑 / 指武
楚莊王伐陳,吳救之,雨十日十夜晴。左史倚相曰:「吳必夜至,甲列壘壞,彼必薄我,何不行列鼓出待之。」吳師至楚,見成陳而還。左史倚相曰:「追之。」吳行六十里而無功,王罷卒寢。果擊之,大敗吳師。
新字:楚荘王伐陳,呉救之,雨十日十夜晴。左史倚相曰:「呉必夜至,甲列塁壊,彼必薄我,何不行列鼓出待之。」呉師至楚,見成陳而還。左史倚相曰:「追之。」呉行六十里而無功,王罷卒寝。果撃之,大敗呉師。
書き下し
楚の莊王陳を伐つ、呉之を救う、雨十日十夜晴る。左史倚相曰く、「呉必ず夜に至らん、甲列し壘壞れば、彼必ず我を薄めん、何ぞ行列鼓し出でて之を待たざる」と。呉師楚に至り、成陳を見て還る。左史倚相曰く、「之を追え」と。呉六十里を行きて功無く、王卒を罷めて寢ぬ。果たして之を擊ち、大いに呉師を敗る。
現代語訳
楚の荘王が陳を討伐したところ、呉がこれを救援した。雨が十日十夜降り続いてようやく晴れた。左史(記録官)の倚相が言った、「呉軍はきっと夜のうちに攻め寄せてくるでしょう。長雨で甲冑の並びは乱れ陣営の壁も崩れているはずですから、彼らは必ずこちらに迫ってきます。どうして隊列を整え太鼓を鳴らして出陣し、迎え撃つ備えをしないのですか」と。楚軍がそうして待ち構えると、呉軍が楚に迫ってきたが、すでに整った陣を見て引き返した。左史倚相は「これを追撃しましょう」と言った。呉軍は六十里も進軍したが何の戦果も得られず、王(楚荘王)は兵を休ませて眠りについた。果たして呉軍はこちらを攻撃してきたが、大いにこれを打ち破った。
解説
長雨による混乱という好機を、楚も呉もともに見据えていたが、勝敗を分けたのは事前に相手の意図を読んで先手を打って備えを整えたかどうかであった。倚相の進言は、悪天候という不利な条件をそのまま放置せず、むしろ敵が付け入るはずの隙を逆手に取って迎撃態勢を敷くという発想の転換にある。危機的な状況やコンディションの悪さそのものよりも、その状況で相手が何を狙ってくるかを先読みし、備えを怠らないことこそが勝敗を分けるという教訓は、危機管理全般に通じる普遍的な視点である。

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楚荘王左史倚相先読み
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