説苑 / 指武
晉智伯伐鄭,齊田恒救之,有登蓋必身立焉,車徒有不進者必令助之。壘合而後敢處,井灶成而後敢食。智伯曰:「吾聞田恒新得國而愛其民,內同其財,外同其勤勞,治軍若此,其得眾也,不可待也。」乃去之耳。
新字:晉智伯伐鄭,斉田恒救之,有登蓋必身立焉,車徒有不進者必令助之。塁合而後敢処,井灶成而後敢食。智伯曰:「吾聞田恒新得国而愛其民,内同其財,外同其勤労,治軍若此,其得眾也,不可待也。」乃去之耳。
書き下し
晉の智伯鄭を伐つ、齊の田恒之を救う、蓋を登るる有れば必ず身自ら立ち、車徒進まざる者有れば必ず之を助けしむ。壘合いて後に敢えて處り、井灶成りて後に敢えて食す。智伯曰く、「吾聞く田恒新たに國を得て其の民を愛し、內は其の財を同じくし、外は其の勤勞を同じくす、軍を治むること此くの如し、其の眾を得ること、待つべからざるなり」と。乃ち之を去るのみ。
現代語訳
晋の智伯が鄭を討伐したとき、斉の田恒がこれを救援に赴いた。田恒は車の覆いを立てるにも必ず自ら手を貸し、車や兵が進めずにいると必ずこれを助けさせた。陣営を築き終えてから初めて自分の居場所につき、炊事場が整ってから初めて食事をとった。智伯はこれを聞いて言った、「私が聞くところでは、田恒は新たに国を得たばかりでその民を愛し、内では財を共にし、外では労苦を共にしているという。軍を治めることがこのようであれば、その民心を得ていることは、とても太刀打ちできるものではない」と。そこで軍を引いて立ち去っただけであった。
解説
田恒が発揮したリーダーシップは、命令や制度ではなく、率先して兵士と同じ苦労を分かち合う姿勢そのものにあった。陣営や食事において自分だけ先に楽をすることを避け、常に部下の後に自分を置くという徹底した行動が、それだけで敵将に、これは攻めても勝てないと戦わずして撤退を決断させるほどの力を持った点が興味深い。組織における信頼と結束は、言葉による方針表明よりも、リーダー自身が日々の些細な場面でどちらを優先するかという行動の積み重ねによって築かれるという教訓を示している。
この章句が説くこと
田恒率先垂範民心
関連する章句
-
十七条憲法 第八条群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、早(つと)に朝(まい)りて晏(おそ)く退(しりぞ)け。公事(くじ)盬(しお)きこと靡(な)く、終日(ひねもす)にも尽(つ)くし難(がた)し。是(ここ)を以(もっ)て遅(おそ)く朝(まい)れば急(きゅう)に逮(およ)ばず、早く退(しりぞ)けば必(かなら)ずその功(こう)を尽(つ)くさず。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「身、道を行わざれば、妻子にも行われず。人を使うに道を以 てせざれば、妻子にも行わるること能わず。」
-
論語・衛霊公篇子曰わく、身をもって厚くし、人を責むること薄ければ、すなわち怨み遠し。
-
論語・里仁篇子曰く、「我未だ仁を好む者と、不仁を悪む者とを見ざるなり。仁を好む者は、以て之に尚(くわ)うる無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為すや、不仁者をして其の身に加えしめず。能く一日其の力を仁に用うること有らんか。我未だ力足らざる者を見ざるなり。蓋し之有らん、我未だ之を見ざるなり。」
-
史記 孫子呉起列伝起の将為るや、士卒の最下の者と衣食を同じくす。臥するに席を設けず、行くに騎乗せず、親ら贏糧を裹ひ、士卒と労苦を分かつ。卒に疽を病む者有り、起、為に之を吮ふ。卒の母、聞きて之に哭す。人曰く、「子は卒なり、而るに将軍自ら其の疽を吮ふ、何ぞ哭するを為す」と。母曰く、「然るに非ざるなり。往年、呉公、其の父を吮ひ、其の父、戦ひて踵を旋さず、遂に敵に死す。呉公今又其の子を吮ふ。妾、其の死所を知らず。是を以て之を哭す」と。
-
六韜・励軍武王 太公に問ひて曰く、「吾 三軍の衆をして、城を攻むれば先登を争ひ、野戦すれば先赴を争ひ、金の声を聞きて怒り、鼓の声を聞きて喜ばしめんと欲す。之を為すこと奈何」と。太公曰く、「将に三あり」と。武王曰く、「敢へて其の目を問はん」と。太公曰く、「将 冬に裘を服ず、夏に扇を操らず、雨に蓋を張らず、名づけて礼将と曰ふ。将 身づから礼を服せざれば、以て士卒の寒暑を知る無し。隘塞を出で、泥塗を犯すには、将 必ず先づ下りて歩む、名づけて力将と曰ふ。将 身づから力を服せざれば、以て士卒の労苦を知る無し。軍 皆な次を定めて、将 乃ち舎に就く。炊ぐ者 皆な熟して、将 乃ち食に就く。軍 火を挙げざれば、将も亦た挙げず、名づけて止欲将と曰ふ。将 身づから止欲を服せざれば、以て士卒の飢飽を知る無し。将 士卒と寒暑・労苦・飢飽を共にす、故に三軍の衆、鼓の声を聞けば則ち喜び、金の声を聞けば則ち怒る。高城深池、矢石 繁く下るも、士は先登を争ふ。白刃 始めて合ふも、士は先赴を争ふ。士は死を好みて傷つくを楽しむに非ざるなり。其の将の寒暑・飢飽を知ること審らかにして、労苦を見ること明らかなるが為なり」と。