説苑 / 至公
趙宣子言韓獻子於晉侯曰:「其為人不黨,治眾不亂,臨死不恐。」晉侯以為中軍尉。河曲之役,趙宣子之車干行,韓獻子戮其僕,人皆曰:「韓獻子必死矣,其主朝昇之,而暮戮其僕,誰能待之!」役罷,趙宣子觴大夫,爵三行曰:「二三子可以賀我。」二三子曰:「不知所賀。」宣子曰:「我言韓厥於君,言之而不當,必受其刑。今吾車失次而戮之僕,可謂不黨矣。是吾言當也。」二三子再拜稽首曰:「不惟晉國適享之,乃唐叔是賴之,敢不再拜稽首乎?」
新字:趙宣子言韓献子於晉侯曰:「其為人不党,治眾不乱,臨死不恐。」晉侯以為中軍尉。河曲之役,趙宣子之車干行,韓献子戮其僕,人皆曰:「韓献子必死矣,其主朝昇之,而暮戮其僕,誰能待之!」役罷,趙宣子觴大夫,爵三行曰:「二三子可以賀我。」二三子曰:「不知所賀。」宣子曰:「我言韓厥於君,言之而不当,必受其刑。今吾車失次而戮之僕,可謂不党矣。是吾言当也。」二三子再拝稽首曰:「不惟晉国適享之,乃唐叔是頼之,敢不再拝稽首乎?」
書き下し
趙宣子韓獻子を晉侯に言いて曰く、「其の人と為り黨せず、眾を治めて亂れず、死に臨みて恐れず」と。晉侯以て中軍尉と為す。河曲の役、趙宣子の車行を干す、韓獻子其の僕を戮す、人皆曰く、「韓獻子必ず死せん、其の主朝に之を昇し、而して暮に其の僕を戮す、誰か能く之を待たん」と。役罷みて、趙宣子大夫に觴し、爵三行して曰く、「二三子以て我を賀すべし」と。二三子曰く、「賀する所を知らず」と。宣子曰く、「我韓厥を君に言い、之を言いて當らざれば、必ず其の刑を受けん。今吾が車次を失いて其の僕を戮す、黨せずと謂うべし。是れ吾が言の當れるなり」と。二三子再拜稽首して曰く、「惟だ晉國のみ之を適享するに非ず、乃ち唐叔是れ賴るなり、敢えて再拜稽首せざらんや」と。
現代語訳
趙宣子は韓献子のことを晋侯に評して言った、「その人柄は徒党を組まず、大勢を治めて乱すことがなく、死を目前にしても恐れません」と。晋侯はそこで韓献子を中軍の尉(将校)に任じた。河曲の戦役で、趙宣子の乗る車が隊列を乱したところ、韓献子はその御者を処刑した。人々は皆、「韓献子はきっと死ぬだろう。自分を推挙してくれた主人を朝に昇進させておきながら、夕方にはその御者を処刑するとは、誰がこれに耐えられようか」と言った。戦役が終わって、趙宣子は大夫たちに酒宴を催し、盃を三巡させたところで言った、「諸君、私を祝ってくれてよい」と。皆は「何を祝うべきか分かりません」と言った。宣子は言った、「私が韓厥を君侯に推挙して、もしその言葉が当たっていなければ、私自身が処罰を受けるはずであった。今、私の車が隊列を乱した際にその御者を処刑したのは、徒党を組まない証だと言えよう。これは私の推挙の言葉が正しかったということだ」と。皆は再拝して頭を下げ、「これはただ晋国だけがこの人物の恩恵を受けるのではなく、始祖の唐叔もこれによって支えられるのです。どうして再拝して頭を下げずにいられましょうか」と言った。
解説
この章句が説くこと
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説苑・復恩晋の趙盾韓厥を挙げ、晋君以て中軍尉と為す、趙盾死し、子朔嗣ぎて卿と為る。景公の三年に至り、趙朔晋の将為り、朔成公の姉を取りて夫人と為す、大夫屠岸賈趙氏を誅せんと欲す、初め趙盾夢に叔帯の亀要を持ちて哭すること甚だ悲しきを見る、已にして笑ひて手を拊ちて且つ歌ふ、盾之を占ふに、垂に絶えて而る後に好しと、趙の史援之を占ひて曰く、此れ甚だ悪しきこと君の身に非ず、君の子に及ばん、然れども亦た君の咎なり、と。子趙朔に至り、世益々衰へ、屠岸賈なる者、始め霊公に寵有り、晋景公に至るに及び、賈司寇と為り、将に難を作さんとし、乃ち霊公の賊を治むるを以て、趙盾に遍く諸将に告げしめて曰く、「趙穿霊公を弑す、盾知らずと雖も猶ほ首賊為り、臣君を殺すに、子孫朝に在らば、何を以て罪を懲さん、請ふ之を誅せん」と。韓厥曰く、「霊公賊に遇ふとき、趙盾外に在り、吾が先君以て罪無しと為す、故に誅せず。今諸君其の後を誅せんとするは、是れ先君の意に非ずして妄りに誅するなり。妄りに誅するは之を乱臣と謂ふ、大事有りて君聞かざるは、是れ君無きなり」と。屠岸賈聴かず、厥趙朔に告げて趨り亡げしめんとするも、趙朔肯んぜずして曰く、「子必ず趙祀を絶たざれ、朔死すとも且つ恨みず」と。韓厥諾し、疾と称して出でず、賈請はずして擅に諸将と与に趙氏を下宮に攻め、趙朔・趙括を殺す。趙嬰斉、皆其の族を滅ぼす。朔の妻成公の姉遺腹有り、公宮に走りて匿る、後男を生み乳す、朔の客程嬰持ちて山中に亡匿す、居ること十五年、晋の景公疾む、之を卜すれば曰く、「大業の後の遂げざる者祟を為す」と。景公疾みて韓厥に問ふ、韓厥趙孤の在るを知り、乃ち曰く、「大業の後、晋に於て祀を絶つ者は、其れ趙氏か。夫れ中衍の衍より皆嬴姓なり、中衍人面鳥喙、殷帝太戊及び周天子を降り佐け、皆明徳有り、下りて幽厲無道に及び、而して叔帯周を去りて晋に適き、先君文侯に事へ、成公に至るまで、世々功を立つる有り、未だ嘗て祀を絶つ有らず、今吾が君に及びて独り之を滅ぼす、趙宗国人之を哀しむ、故に亀策に見はる、唯だ君之を図れ」と。景公問ひて曰く、「趙尚ほ後の子孫有るか」と。韓厥具に実を以て対ふ、是に於て景公乃ち韓厥と与に趙孤児を立てんことを謀り、召して之を宮中に匿す、諸将疾を問ふに入るに、景公韓厥の衆に因りて、以て諸将を脅して趙孤を見えしむ、孤名づけて武と曰ふ、諸将已むを得ずして乃ち曰く、「昔下官の難は屠岸賈之を為す、矯めて君令を以てし、群臣を并せ命ず、然らずんば孰か敢へて難を作さん、君の疾無くんば、群臣固に且に趙後を立てんことを請はんとせり、今君令有り、群臣の願ひなり」と。是に於て趙武・程嬰を召して遍く諸将軍を拝せしむ、将軍遂に返りて程嬰・趙武と与に屠岸賈を攻め、其の族を滅ぼし、復た趙武に田邑を与ふること故の如し。故に人安んぞ以て恩無かるべけんや、夫れ恩に此に有れば故に彼に復ゆ、程嬰に非ざれば則ち趙孤全からず、韓厥に非ざれば則ち趙後復せず。韓厥は恩を忘れずと謂ふべし。
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説苑・立節晋の霊公暴なり。趙宣子驟しば諫む。霊公之を患い、鉏之弥をして之を賊わしむ。鉏之弥晨に往くに、則ち寝門闢けり。宣子盛服して将に朝せんとし、尚早ければ、坐して仮寝す。之弥退きて、歎じて言いて曰わく、「恭敬を忘れざるは、民の主なり。民の主を賊うは、不忠なり。君の命を棄つるは、不信なり。此に一有らば、死に如かざるなり」と。遂に槐に触れて死す。
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説苑・復恩趙襄子晋陽に囲まるるを見る、囲を罷めて、功有るの臣五人を賞す、高赫功無くして上賞を受く、五人皆怒る、張孟談襄子に謂ひて曰く、「晋陽の中、赫大功無きに、今之に上賞を与ふるは、何ぞや」と。襄子曰く、「吾拘厄の中に在るとき、臣主の礼を失はざりし者は唯だ赫のみなり。子は功有りと雖も皆驕る、寡人赫に上賞を与ふるは、亦た可ならずや」と。仲尼之を聞きて曰く、「趙襄子善く士を賞すと謂ふべきかな。一人を賞して天下の人臣、敢へて君臣の礼を失ふ莫し」と。
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説苑・善說晉獻公の時、東郭の民に祖朝なる者有り。上書して獻公に曰く、「草茅の臣、東郭の民祖朝、願わくは國家の計を聞くを請わん。」獻公使いをして出でて之に告げしめて曰く、「肉食する者已に之を慮れり。藿食する者尚お何ぞ與らんや。」祖朝對えて曰く、「大王獨り古の將桓司馬なる者を聞かざるか。朝々其の君に朝し、舉げて宴す。御車を呼ばば、驂も亦た車を呼ぶ。御其の驂に肘して曰く、『子何ぞ越えて云爲するか。何為れぞ藉りに車を呼ぶや。』驂其の御に謂いて曰く、『當に呼ぶべき者呼ぶは、乃ち吾が事なり。子は當に子の轡銜を正すべきのみ。子今轡銜を正さずして、馬をして卒然として驚かしめ、妄りに道中の行人を轢かば、必ず大敵に逢い、車を下り劍を免れ、血を涉り肝を履むは固より吾が事なり。子寧んぞ能く子の轡を辟け、下りて我を佐くるか。其の禍も亦た吾が身に及び、與に深憂有り。吾安んぞ車を呼ぶ無きを得んや。』今大王曰く、『肉を食う者已に之を慮れり、藿を食う者尚お何ぞ與らんや。』設し肉を食う者一旦廟堂の上に計を失わば、臣等藿を食う者の若きも、寧んぞ肝膽を中原の野に塗る無きを得んや。其の禍も亦た臣が身に及ぶ。臣與に其の憂い深し。臣安んぞ國家の計に與る無きを得んや。」獻公召して之を見、三日與に語り、復た憂うる者無し、乃ち立てて以て師と爲せり。
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説苑・君道韓の武子田す。獣已に聚まり、田車已に合う。伝来りて告げて曰く、「晋公薨ず」と。武子欒懐子に謂いて曰く、「子も亦た君の田猟を好むを知る。獣已に聚まり、田車已に合う。吾以て猟を卒えて後に弔うべきか」と。懐子対えて曰く、「范氏の亡ぶるや、輔多くして拂少なし。今臣君に於けるや、輔なり。畾君に於けるや、拂なり。君胡ぞ畾に問わざるや」と。武子曰く、「盈にして我を拂かんと欲するか、而れども我を拂けり、何ぞ必ずしも畾ならんや」と。遂に田を輟む。
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説苑・君道趙の簡子、欒激と遊び、将に河に沈まんとして曰く、「吾嘗て声色を好みしに、欒激之を致せり。吾嘗て宮室台榭を好みしに、欒激之を為せり。吾嘗て良馬善御を好みしに、欒激之を求めり。今吾士を好むこと六年、而れども欒激未だ嘗て一人を進めず、是れ吾が過ちを進めて吾が善を黜くるなり」と。