説苑 / 至公
秦晉戰交敵,秦使人謂晉將軍曰:「三軍之士皆未息,明日請復戰。」臾駢曰:「使者目動而言肆,懼我,將遁矣,迫之河,必敗之。」趙盾曰:「死傷未收而棄之,不惠也。不待期而迫人於險,無勇也,請待。」秦人夜遁。
新字:秦晋戦交敵,秦使人謂晋将軍曰:「三軍之士皆未息,明日請復戦。」臾駢曰:「使者目動而言肆,懼我,将遁矣,迫之河,必敗之。」趙盾曰:「死傷未収而棄之,不恵也。不待期而迫人於険,無勇也,請待。」秦人夜遁。
書き下し
秦晉戰いて敵に交わる、秦人を使わして晉の將軍に謂わしめて曰く、「三軍の士皆未だ息わず、明日復た戰わんことを請う」と。臾駢曰く、「使者目動きて言肆なり、我を懼れしめ、將に遁げんとするなり、之を河に迫らば、必ず之を敗らん」と。趙盾曰く、「死傷未だ收めずして之を棄つるは、惠ならざるなり。期を待たずして人を險に迫るは、勇ならざるなり、請う待たん」と。秦人夜遁ぐ。
現代語訳
秦と晋が戦い、敵として交戦した。秦は使者を遣わして晋の将軍に告げさせた、「三軍の兵士はまだ誰も休んでいない、明日また戦いを続けよう」と。臾駢は言った、「使者の目は落ち着かず動き、言葉は大げさでした。これは我々を恐れさせようとしているのであり、実は逃げようとしているのです。彼らを黄河のほとりに追い詰めれば、必ず打ち破れます」と。趙盾は言った、「死傷者もまだ収容していないのにこれを見捨てるのは、思いやりがないことだ。約束の期日を待たずに人を険しい場所に追い詰めるのは、勇ましいことではない。もう少し待とう」と。すると秦の軍は夜のうちに逃げ去った。
解説
敵の虚勢を見抜いた臾駢の観察眼と、勝てる好機を前にしてもなお仁義に反する追撃を控えた趙盾の判断とが対比される章である。ここでの至公とは、勝利という結果だけを目的化せず、死傷者への配慮や正々堂々とした手続きを優先する姿勢にある。ビジネスや競争の場面でも、相手の弱みや隙を突けば有利に事を運べる局面は多いが、その手段が道義に反しないかを問い直す余地を持つことが、長期的な信頼につながるという教訓を示している。

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趙盾仁義戦の作法
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『春秋左氏伝』文公十二年 河曲の戦い冬、秦伯晉を伐ち、羈馬を取る。晉人之を禦ぐ。趙盾中軍に將たり、荀林父之に佐たり。郤缺上軍に將たり、臾駢之に佐たり。欒盾下軍に將たり、胥甲之に佐たり。范無恤戎に御し、以って秦の師に河曲に從ふ。臾駢曰く、「秦久しくする能はず、請ふ壘を深くし軍を固くして以って之を待たん」と。之に從ふ。秦人戰はんと欲す。秦伯士會に謂ひて曰く、「若何にして戰はん」と。對へて曰く、「趙氏新たに其の屬を出だす、臾駢と曰ふ。必ず實に此の謀を為す、將に以って我が師を老らせんとするなり。趙に側室有り穿と曰ふ、晉君の婿なり。寵有りて弱く、軍事に在らず。勇を好みて狂なり、且つ臾駢の上軍に佐たるを惡む。若し輕き者をして肆(おか)さしめば、其れ可ならん」と。秦伯璧を以って戰を河に祈る。十二月、戊午、秦の軍晉の上軍を掩ふ。趙穿之を追ひて及ばず。反りて、怒りて曰く、「糧を裹み甲を坐し、固より敵を是れ求む。敵至りて擊たずんば、將た何をか俟たん」と。軍吏曰く、「將に待つ有らんとす」と。穿曰く、「我謀を知らず、將に獨り出でんとす」と。乃ち其の屬を以って出づ。宣子曰く、「秦穿を獲ば、一卿を獲るなり。秦勝ちを以って歸らば、我何を以ってか報いん」と。乃ち皆出でて戰ひ、交々綏(しりぞ)く。秦の行人夜晉の師に戒めて曰く、「兩君の士、皆未だ憖(か)けず。明日請ふ相見えん」と。臾駢曰く、「使者目動きて言肆なり、我を懼るるなり、將に遁れんとす。諸を河に薄らば、必ず之を敗らん」と。胥甲・趙穿、軍門に當たりて呼びて曰く、「死傷未だ收めずして之を棄つるは、不惠なり。期を待たずして人を險に薄るは、無勇なり」と。乃ち止む。秦の師夜遁る。復た晉を侵し、瑕に入る。諸及び鄆に城く、時を書するなり。
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