説苑 / 權謀
吳王夫差破越,又將伐陳。楚大夫皆懼,曰:「昔闔廬能用其眾,故破我於柏舉。今聞夫差又甚焉。」子西曰:「二三子,恤不相睦也,無患吳矣,昔闔廬食不貳味,處不重席,擇不取費。在國,天有災,親戚乏困而供之;在軍,食熟者半而後食。其所嘗者,卒乘必與焉。是以民不罷勞,死知不曠。今夫差,次有臺榭陂池焉;宿有妃嬙嬪御焉。一日之行,所欲必成,玩好必從,珍異是聚,夫差先自敗己,焉能敗我?」
新字:吳王夫差破越,又将伐陳。楚大夫皆懼,曰:「昔闔廬能用其眾,故破我於柏舉。今聞夫差又甚焉。」子西曰:「二三子,恤不相睦也,無患吳矣,昔闔廬食不貳味,処不重席,択不取費。在国,天有災,親戚乏困而供之;在軍,食熟者半而後食。其所嘗者,卒乗必与焉。是以民不罷労,死知不曠。今夫差,次有台榭陂池焉;宿有妃嬙嬪御焉。一日之行,所欲必成,玩好必従,珍異是聚,夫差先自敗己,焉能敗我?」
書き下し
吳王夫差越を破り、又た陳を伐たんとす。楚の大夫皆懼れて曰く、「昔闔廬能く其の衆を用ゐ、故に我を柏舉に破れり。今聞く夫差又た甚しと」と。子西曰く、「二三子、睦まざるを恤へよ、吳を患ふること無かれ。昔闔廬は食ふに味を貳せず、處るに席を重ねず、擇びて費を取らず。國に在りては、天災あれば親戚の乏困する者に之を供す。軍に在りては、食の熟する者半ばにして後に食す。其の嘗むる所の者は、卒乘必ず與る。是を以て民罷勞せず、死して曠しからざるを知る。今夫差は、次に臺榭陂池有り、宿に妃嬙嬪御有り。一日の行、欲する所必ず成し、玩好必ず從へ、珍異是れ聚む。夫差先づ自ら己を敗る、焉んぞ能く我を敗らんや」と。
現代語訳
呉王夫差が越を打ち破り、さらに陳を討とうとしていた。楚の大夫たちはみな恐れて言った。「昔、闔廬はよく兵をまとめて用いたので、我らは柏挙の地で敗れた。今聞くところによると、夫差はそれ以上だという」と。子西は言った。「諸君、我々自身の不和を憂うべきであって、呉を恐れる必要はない。昔の闔廬は食事で二種のご馳走を並べず、座るのに敷物を重ねず、無駄な出費を避けた。国内にあっては天災が起きれば困窮した親戚縁者にも物資を分け与えた。軍にあっては、炊いた食事の半分がまだ残っているうちに自ら食し(民と分かち合い)、自分が味わうものには必ず兵卒や御者も与らせた。だからこそ民は疲れを知らず、死んでも報われないということがないと信じていた。ところが今の夫差はどうだ。行く先々に高殿や池庭を構え、宿泊先には后妃や側室を侍らせている。一日の行動でも、望むことは必ず叶え、玩具や愛玩物を必ず携え、珍しい品々を集めまわっている。夫差はまず自分自身を滅ぼしているのだ。どうして我々を滅ぼせようか」と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・指武呉王闔廬荊人と柏舉に戰い、大いに之に勝ち、郢郊に至り、五たび荊人を敗る。闔廬の臣五人進みて諫めて曰く、「夫れ深く入り遠く報ゆるは、王の利に非ざるなり、王其れ返らんか」と。五將頭を鍥み、闔廬未だ之に應えず、五人の頭馬前に墜つ、闔廬懼れ、伍子胥を召して之に問う。子胥曰く、「五臣は懼るるなり。夫れ五敗の人は、其の懼るること甚だし、王姑く少しく進め」と。遂に郢に入り、南は江に至り、北は方城に至り、方三千里、皆楚に服せり。
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説苑・權謀越飢ゑ、句踐懼る。四水諫めて曰く、「夫れ飢ゑは、越の福にして、吳の禍なり。夫れ吳國甚だ富みて財餘り有り。其の君名を好みて後患を思はず。若し我卑辭重幣以て糴を吳に請はば、吳必ず我に與へん。我に與ふれば則ち吳取るべきなり」と。越王之に從ふ。吳將に之に與へんとするに、子胥諫めて曰く、「不可なり。夫れ吳越は地を接し境を鄰し、道易く通ず。仇讎敵戰の國なり。吳越有るに非ざれば、越必ず吳有らん。夫れ齊・晉は三江五湖を越えて吳越を亡ぼす能はず。之に因りて之を攻むるに如かず。是れ吾が先王闔廬の霸たる所以なり。且つ夫れ飢ゑは何ぞや。亦た猶ほ淵のごとし。敗伐の事、誰の國か有ること無からん。君若し攻めずして之に糴を輸せば、則ち利去りて凶至り、財匱ゑて民怨まん。悔ゆるも及ぶこと無からん」と。吳王曰く、「吾聞く、義兵は仁人を服せず、饑を以て之を攻めず。十越を得ると雖も、吾爲さざるなり」と。遂に與に糴す。三年、吳も亦た飢ゑ、糴を越に請ふ。越王與へずして之を攻め、遂に吳を破る。
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説苑・權謀晉人已に智氏に勝ち、歸りて甲を繕ひ兵を砥ぐ。楚王恐れ、梁公弘を召して曰く、「晉人已に智氏に勝てり。歸りて甲兵を繕ふ。其れ我を以て事と爲さんか」と。梁公曰く、「患へず。害は其れ吳に在らんか。夫れ吳君は民を恤み其の勞を同じくし、其の民をして上の令を重んぜしめ、人其の死を輕んじて以て上に從はしむ。虜の戰ふが如くならしめば、臣山に登りて以て之を望むに、其の百姓の信を用ふるを見る。必ずや已むこと勿からんか。其れ之に備ふること若何」と。聽かず。明年、闔廬郢を襲ふ。
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史記 呉太伯世家呉王夫差、齊を伐たんと欲す。子胥諫めて曰く、「越王句踐食に味を重ねず、衣に采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ、且つ其の衆を用ゐんとする所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在りて王先んぜず、而して齊を務む、亦た謬らずや」と。呉王聴かず。呉王大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅ぼすを観ん」と。越呉を囲み、呉王曰く、「吾子胥の言を用ゐざるを悔ゆ、自ら此に陥らしむ」と。遂に自剄して死す。
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『墨子』非攻中攻戰を飾る者の言に曰く、「彼は彼の衆を收め用うる能わず、是の故に亡ぶ。我れは我が衆を收め用うる能う。此を以て天下に攻戰せば、誰か敢えて賔服せざらんや」と。子墨子言いて曰く、「子、能く子の衆を收め用うと雖も、子、豈に古者の吳の闔閭の若くならんや。古者、吳の闔閭は教うること七年、甲を奉じ兵を執りて、三百里を奔りて焉に舎す。注林に次し、㝠隘の徑に出で、柏舉に戰い、楚國に中りて宋と及び魯とを朝せしむ。夫差の身に至りて、北面して齊を攻め、汶上に舎し、艾陵に戰い、大いに齊人を敗りて之を泰山に葆らしむ。東面して越を攻め、三江五湖を濟りて、之を會稽に葆らしむ。九夷の國、賔服せざる莫し。是に於て退きて孤を賞する能わず、羣氓に施舍せず、自ら其の力を恃み、其の功を伐り、其の智を譽め、教に怠り、遂に姑蘇の臺を築き、七年にして成らず。此くの若きに及べば、則ち吳に離罷の心有り。越王句踐、吳の上下、相い得ざるを視て、其の衆を收めて以て其の讐に復し、北郭に入り、大内に徙り、王宫を圍みて、吳國、以て亡ぶ。
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呂氏春秋・知化②呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊と呉とは、習俗同じからず、言語通ぜず。我、其の地を得るとも處ること能わず、其の民を得るとも使うことを得ず。夫れ呉と越とは、土を接し境を鄰し、壤交わり通屬なり、習俗同じ、言語通ず。我、其の地を得ば、能く之に處り、其の民を得ば、能く之を使う。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉・越の勢いは兩立せず。越の呉に於けるや、譬えば心腹の疾の若きなり。作ること無しと雖も、其の傷は深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しまざれば其れ已むなり。且つ其れ傷うこと無きなり。今、越を釋てて齊を伐つは、之を譬うれば猶ほ虎を懼れて猏を刺すがごとし。之に勝つと雖も、其の後患央くること無し。」太宰嚭曰く、「不可なり。君王の令、上國に行われざる所以の者は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之に勝ち、其の兵を徙して以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王、一舉して兩國を服すなり。君王の令、必ず上國に行われん。」夫差以て然りと為し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用う。子胥曰く、「天將に呉を亡ぼさんとせば、則ち君王をして戰いて勝たしめん。天將に呉を亡ぼさざらんとせば、則ち君王をして戰いて勝たざらしめん。」夫差聽かず。子胥、兩袪高蹶して、廷を出でて曰く、「嗟乎、呉の朝必ず荊棘を生ぜん。」夫差、師を興し齊を伐ち、艾陵に戰い、大いに齊の師を敗り、反りて子胥を誅す。子胥將に死せんとして曰く、「與、吾安くにか一目を得て、以て越人の呉に入るを視ん。」乃ち自殺す。夫差乃ち其の身を取りて、之を江に流し、其の目を抉りて、之を東門に著き、曰く、「女胡ぞ越人の我に入るを視ん。」居ること數年、越、呉に報い、其の國を殘い、其の世を絕ち、其の社稷を滅ぼし、其の宗廟を夷げ、夫差は身擒と為る。夫差將に死せんとして曰く、「死者如し知る有らば、吾何の面ありて以て子胥を地下に見ん。」乃ち幎を為りて以て面を冒いて死す。夫れ患い未だ至らざれば、則ち告ぐ可からざるなり。患既に至れば、之を知ると雖も及ぶこと無し。故に夫差の子胥に慚づることを知れるは、知ること勿きに若かず。