呂氏春秋 / 知化②
吳王夫差將伐齊,子胥曰:「不可。夫齊之與吳也,習俗不同,言語不通,我得其地不能處,得其民不得使。夫吳之與越也,接土鄰境,壤交通屬,習俗同,言語通,我得其地能處之,得其民能使之。越於我亦然。夫吳、越之勢不兩立。越之於吳也,譬若心腹之疾也,雖無作,其傷深而在內也。夫齊之於吳也,疥癬之病也,不苦其已也,且其無傷也。今釋越而伐齊,譬之猶懼虎而刺猏,雖勝之,其後患未央。」太宰嚭曰:「不可。君王之令所以不行於上國者,齊、晉也。君王若伐齊而勝之,徙其兵以臨晉,晉必聽命矣,是君王一舉而服兩國也,君王之令必行於上國。」夫差以為然,不聽子胥之言,而用太宰嚭之謀。子胥曰:「天將亡吳矣,則使君王戰而勝。天將不亡吳矣,則使君王戰而不勝。」夫差不聽。子胥兩袪高蹶而出於廷,曰:「嗟乎!吳朝必生荊棘矣。」夫差興師伐齊,戰於艾陵,大敗齊師,反而誅子胥。子胥將死曰:「與!吾安得一目以視越人之入吳也?」乃自殺。夫差乃取其身而流之江,抉其目,著之東門,曰:「女胡視越人之入我也?」居數年,越報吳,殘其國,絕其世,滅其社稷,夷其宗廟,夫差身為擒。夫差將死曰:「死者如有知也,吾何面以見子胥於地下?」乃為幎以冒面死。夫患未至,則不可告也;患既至,雖知之無及矣。故夫差之知慚於子胥也,不若勿知。
新字:呉王夫差将伐斉,子胥曰:「不可。夫斉之与呉也,習俗不同,言語不通,我得其地不能処,得其民不得使。夫呉之与越也,接土鄰境,壤交通属,習俗同,言語通,我得其地能処之,得其民能使之。越於我亦然。夫呉、越之勢不両立。越之於呉也,譬若心腹之疾也,雖無作,其傷深而在内也。夫斉之於呉也,疥癬之病也,不苦其已也,且其無傷也。今釈越而伐斉,譬之猶懼虎而刺猏,雖勝之,其後患未央。」太宰嚭曰:「不可。君王之令所以不行於上国者,斉、晋也。君王若伐斉而勝之,徙其兵以臨晋,晋必聴命矣,是君王一舉而服両国也,君王之令必行於上国。」夫差以為然,不聴子胥之言,而用太宰嚭之謀。子胥曰:「天将亡呉矣,則使君王戦而勝。天将不亡呉矣,則使君王戦而不勝。」夫差不聴。子胥両袪高蹶而出於廷,曰:「嗟乎!呉朝必生荊棘矣。」夫差興師伐斉,戦於艾陵,大敗斉師,反而誅子胥。子胥将死曰:「与!吾安得一目以視越人之入呉也?」乃自殺。夫差乃取其身而流之江,抉其目,著之東門,曰:「女胡視越人之入我也?」居数年,越報呉,残其国,絶其世,滅其社稷,夷其宗廟,夫差身為擒。夫差将死曰:「死者如有知也,吾何面以見子胥於地下?」乃為幎以冒面死。夫患未至,則不可告也;患既至,雖知之無及矣。故夫差之知慚於子胥也,不若勿知。
書き下し
呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊と呉とは、習俗同じからず、言語通ぜず。我、其の地を得るとも處ること能わず、其の民を得るとも使うことを得ず。夫れ呉と越とは、土を接し境を鄰し、壤交わり通屬なり、習俗同じ、言語通ず。我、其の地を得ば、能く之に處り、其の民を得ば、能く之を使う。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉・越の勢いは兩立せず。越の呉に於けるや、譬えば心腹の疾の若きなり。作ること無しと雖も、其の傷は深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しまざれば其れ已むなり。且つ其れ傷うこと無きなり。今、越を釋てて齊を伐つは、之を譬うれば猶ほ虎を懼れて猏を刺すがごとし。之に勝つと雖も、其の後患央くること無し。」太宰嚭曰く、「不可なり。君王の令、上國に行われざる所以の者は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之に勝ち、其の兵を徙して以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王、一舉して兩國を服すなり。君王の令、必ず上國に行われん。」夫差以て然りと為し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用う。子胥曰く、「天將に呉を亡ぼさんとせば、則ち君王をして戰いて勝たしめん。天將に呉を亡ぼさざらんとせば、則ち君王をして戰いて勝たざらしめん。」夫差聽かず。子胥、兩袪高蹶して、廷を出でて曰く、「嗟乎、呉の朝必ず荊棘を生ぜん。」夫差、師を興し齊を伐ち、艾陵に戰い、大いに齊の師を敗り、反りて子胥を誅す。子胥將に死せんとして曰く、「與、吾安くにか一目を得て、以て越人の呉に入るを視ん。」乃ち自殺す。夫差乃ち其の身を取りて、之を江に流し、其の目を抉りて、之を東門に著き、曰く、「女胡ぞ越人の我に入るを視ん。」居ること數年、越、呉に報い、其の國を殘い、其の世を絕ち、其の社稷を滅ぼし、其の宗廟を夷げ、夫差は身擒と為る。夫差將に死せんとして曰く、「死者如し知る有らば、吾何の面ありて以て子胥を地下に見ん。」乃ち幎を為りて以て面を冒いて死す。夫れ患い未だ至らざれば、則ち告ぐ可からざるなり。患既に至れば、之を知ると雖も及ぶこと無し。故に夫差の子胥に慚づることを知れるは、知ること勿きに若かず。
現代語訳
呉王夫差が斉を伐とうとした。子胥が言った。「なりません。そもそも斉と呉とは風俗が異なり、言葉も通じません。私たちがその土地を得ても住むことはできず、その民を得ても使うことはできません。ところが呉と越とは土地を接し境を隣り合わせ、地続きで道が通じ、風俗も同じ、言葉も通じます。私たちがその土地を得れば住むことができ、その民を得れば使うことができます。越にとって呉もまた同じです。そもそも呉と越の勢いは両立しません。越の呉に対する関係は、たとえば心臓や腹の病のようなもので、発作がなくとも傷は深く内にあります。斉の呉に対する関係は、疥癬という皮膚病のようなもので、苦しまなければ自然に治まり、しかも大した害はありません。今、越を捨て置いて斉を伐つのは、たとえば虎を恐れながら小猪を刺すようなもので、たとえ勝っても後の禍いは尽きません。」太宰嚭が言った。「なりません。君王の命令が中原の大国に行われないわけは、斉と晋があるからです。君王がもし斉を伐って勝ち、その軍を移して晋に臨めば、晋は必ず命に従いましょう。これは君王が一挙に両国を服従させることであり、君王の命令は必ず中原に行われましょう。」夫差はもっともだと思い、子胥の言を聞かず、太宰嚭の策を用いた。子胥は言った。「天が呉を滅ぼそうとするなら、君王を戦って勝たせるでしょう。天が呉を滅ぼすまいとするなら、君王を戦って勝たせないでしょう。」夫差は聞かなかった。子胥は両袖をまくり上げ足を高く上げて朝廷を出て「ああ、呉の朝廷にはきっといばらが生えるだろう」と言った。夫差は軍を興して斉を伐ち、艾陵で戦って大いに斉軍を破り、帰って子胥を誅した。子胥は死のうとして言った。「ああ、私はどうにかして片目でも残し、越人が呉に攻め入るのを見たいものだ。」そして自殺した。夫差はその亡骸を取って長江に流し、その目をえぐって東門に掛け「お前はどうして越人が我が国に攻め入るのを見ようというのか」と言った。数年の後、越は呉に報復し、その国を破り、その血統を絶ち、その社稷を滅ぼし、その宗廟を平らげ、夫差は自ら捕らわれの身となった。夫差は死のうとして「死者にもし知覚があるなら、私はどんな顔で子胥に地下で会えようか」と言った。そこで顔を覆う布を作って顔を覆って死んだ。そもそも禍いがまだ至らぬうちは危険を告げても信じてもらえず、禍いがすでに至れば、それを知っても間に合わない。だから夫差が子胥に対して恥じ入ったと知ったのは、知らないほうがましだったのだ。
解説
この章句が説くこと
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説苑・正諫呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた強楚を破り、北のかた斉晋を威し、南のかた越を伐つ。越王句践之を迎え撃ち、呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷つく。軍卻き、闔廬太子夫差に謂いて曰わく、「爾句践の而の父を殺せしを忘れたるか」と。夫差対えて曰わく、「敢えて忘れじ」と。是の夕闔廬死す。夫差既に立ちて王と為り、伯嚭を以て太宰と為し、戦射を習い、三年にして越を伐ち、夫湫に敗る。越王句践乃ち兵五千人を以て会稽山上に棲み、大夫種をして厚幣もて呉の太宰嚭に遣わして以て和を請わしめ、国を委ねて臣妾と為さんとす。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰わく、「越王人と為り能く辛苦す。今王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭の計を用いて越と平らぐ。其の後五年、呉王斉の景公死し、大臣寵を争うと聞き、新君弱しとして、乃ち師を興して北のかた斉を伐たんとす。子胥諫めて曰わく、「不可なり。句践食に味を重ねず、死を弔い疾を問い、且つ能く人を用う。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾なり、斉は猶お疥癬のみ。而るに王越を先にせずして、乃ち務めて斉を伐つは、亦た謬らずや」と。呉王聴かず、斉を伐ち、大いに斉師を艾陵に敗り、遂に鄒魯の君と会して以て帰り、益々子胥の言を疏んず。其の後四年、呉将に復た北のかた斉を伐たんとす。越王句践子胥の謀を用い、乃ち其の衆を率いて以て呉を助け、重宝を以て太宰嚭に献遺す。太宰嚭既に数々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚だし。日夜呉王の為に言を為す。王嚭の計を信用す。伍子胥諫めて曰わく、「夫れ越は、腹心の疾なり。今其の游辞偽詐を信じて斉を貪る、譬えば猶お石田のごとし、用うる所無し。盤庚に曰わく、『古人に顛越して恭ならざる有り』と。是れ商の興る所以なり。願わくは王斉を釈てて越を先にせよ。然らずんば、将に之を悔ゆるも及ぶ無からん」と。呉王聴かず、子胥をして斉に使いせしむ。子胥其の子に謂いて曰わく、「吾王を諫むるも、王吾を用いず、吾今呉の滅ぶるを見んとす。女呉と俱に亡ぶるは為す無きなり」と。乃ち其の子を斉の鮑氏に属して帰りて呉王に報ず。太宰嚭既に子胥と隙有り、因りて讒して曰わく、「子胥の人と為り、剛暴少恩、其の怨望猜賊にして禍を為すなり。深く前日王斉を伐たんと欲するに、子胥以て不可と為すも、王卒に之を伐ちて大功有り、子胥計謀用いられずして、乃ち反りて怨望す。今王又復た斉を伐たんとするに、子胥専愎強諫し、用事を沮毀す。呉の敗るるを徼幸し、以て自ら其の計謀に勝たんとするのみ。今王自ら行き、国中の武力を悉くして以て斉を伐つに、子胥諫めて用いられず、因りて輟して佯病して行かず。王備えざるべからず。此れ禍を起こすこと難からず。且つ臣人をして微かに之を伺わしむるに、其の斉に使いするや、乃ち其の子を鮑氏に属せり。夫れ人臣内に意を得ずして、外諸侯に交わるは、自ら先王の謀臣を以て、今用いられずして、常に怏怏たり。願わくは王早く之を図れ」と。呉王曰わく、「子の言無くんば、吾も亦た之を疑わん」と。乃ち使いをして子胥に属鏤の剣を賜わしめて曰わく、「子此を以て死せよ」と。子胥曰わく、「嗟乎、讒臣宰嚭乱を為す、王顧りて反りて我を誅す。我若の父をして覇たらしめ、又若を立つるに時なり。諸子弟立を争いしとき、我死を以て先王に争い、幾ど立つを得ざりき。若既に立つに及び、呉国を分かちて我に与えんと欲せしも、我顧りて敢えて当らず。然るに若、何ぞ讒臣の長者を殺すを聴くに之けるや」と。乃ち舎人に告げて曰わく、「必ず吾が墓上に樹うるに梓を以てし、器と為すべからしめ、而して吾が眼を抉りて之を呉の東門に著け、以て越寇の呉を滅ぼすを観ん」と。乃ち自ら刺し殺す。呉王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の屍を取り、鴟夷革を以て盛り、之を江中に浮かぶ。呉人之を憐れみ、乃ち祠を江上に立て、因りて名づけて胥山と曰う。後十余年、越呉を襲い、呉王還りて与に戦うも勝たず、大夫をして越に行成せしむるも許されず。呉王将に死せんとして曰わく、「吾子胥の言を用いざるを以て此に至れり。死者知る無くんば則ち已みなん。死者知る有らば、吾何の面目を以て子胥に見えんや」と。遂に絮を蒙りて面を覆いて自ら刎ず。
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史記 呉太伯世家子胥諫めて曰く、「越王句践、食は味を重ねず、衣は采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ。且に其の衆を用ふる所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在るに、王先にせずして、斉を務む。亦謬らずや」と。呉王聴かず、遂に北のかた斉を伐ち、斉の師を艾陵に敗る。繒に至り、魯の哀公を召して百牢を徴す。季康子、子貢をして周礼を以て太宰嚭に説かしめ、乃ち止むるを得たり。因りて留まりて地を斉・魯の南に略す。九年、騶の為に魯を伐ち、魯と盟ふに至りて乃ち去る。十年、因りて斉を伐ちて帰る。十一年、復た北のかた斉を伐つ。越王句践、其の衆を率ゐて以て呉に朝し、厚く之に献遺す。呉王喜ぶ。唯子胥のみ懼れて曰く、「是れ呉を棄つるなり」と。諫めて曰く、「越は腹心に在り。今志を斉に得るも、猶ほ石田のごとく、用ふる所無し。且つ盤庚の誥に顛越して遺す勿かれと有り、商之を以て興る」と。呉王聴かず、子胥を斉に使せしむ。子胥、其の子を斉の鮑氏に属し、還りて呉王に報ず。呉王之を聞き、大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が墓の上に樹うるに梓を以てし、器と為す可からしめよ。吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅すを観ん」と。
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国語・呉語呉王夫差既に越の成を許し、乃ち大いに師徒を戒め、将に以て斉を伐たんとす。申胥進み諫めて曰く、「昔天越を以て呉に賜うも、王受けず。夫れ天命は反(かえ)ること有り。今越王句践恐懼して其の謀を改め、其の愆令(けんれい)を舎(す)て、其の征賦を軽くし、民の善しとする所を施し、民の悪む所を去り、身自ら約にし、其の衆庶を裕(ゆた)かにし、其の民殷衆にして、以て甲兵多し。越の呉に在るは、猶お人の腹心の疾有るがごとし。夫れ越王の呉を敗るを忘れざるや、其の心に於いて侙然(ちょくぜん)たり。士を服して以て吾が閒(すき)を伺う。今王越を是れ図らずして、斉・魯を以て憂いと為す。夫れ斉・魯は諸(これ)を疾に譬うれば、疥癬(かいせん)なり。豈に能く江・淮を渉りて我と此の地を争わんや。将に必ず越実に呉の土を有たんとす。 「王其れ盍ぞ亦人に鑑みて、水に鑑みること無からざる。昔楚の霊王君たらず、其の臣箴諫すれども以て入れず。乃ち台を章華の上に築き、闕(うが)ちて石郭を為(つく)り、漢を陂(つつみ)して、以て帝舜に象る。楚国を罷弊して、以て陳・蔡を閒(うかが)う。方城の内を修めず、諸夏を踰えて東国を図り、沮(しょ)・汾(ふん)に三歳にして以て呉・越を服せんとす。其の民饑労の殃(わざわい)に忍びず、三軍王に乾谿(かんけい)に叛く。王親ら独り行き、山林の中に屏営(へいえい)仿偟(ほうこう)し、三日にして乃ち其の涓人(けんじん)疇(ちゅう)を見る。王之を呼びて曰く、『余食らわざること三日なり』と。疇趨りて進み、王其の股を枕として以て地に寝ぬ。王寐(い)ぬるや、疇王を枕するに墣(つちくれ)を以てして之を去る。王覚めて見ること無きなり。乃ち匍匐して将に棘闈(きょくい)に入らんとす。棘闈納れず。乃ち芋尹(うい)申亥(しんがい)氏に入る。王縊(くび)る。申亥王を負いて以て帰り、之を其の室に土埋す。此の志や、豈に遽(にわ)かに諸侯の耳に忘れられんや。 「今王既に鯀・禹の功を変じて、高きを高くし下きを下くし、以て民を姑蘇に罷(つか)らす。天吾が食を奪い、都鄙荐(しき)りに饑う。今王将に天に很(もと)りて斉を伐たんとす。夫れ呉の民離る。体に傾く所有り。譬えば群獣の如く然り。一个(いっか)矢を負えば、将に百群皆奔らんとす。王其れ方(みち)の収むる無からん。越人必ず来たりて我を襲わん。王之を悔ゆと雖も、其れ猶お及ぶこと有らんや」と。 王聴かず。十二年、遂に斉を伐つ。斉人与(とも)に艾陵(がいりょう)に戦い、斉の師敗績し、呉人功有り。
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