説苑 / 正諫
吳以伍子胥孫武之謀,西破強楚,北威齊晉,南伐越,越王句踐迎擊之,敗吳於姑蘇,傷闔廬指,軍卻,闔廬謂太子夫差曰:「爾忘句踐殺而父乎?」夫差對曰:「不敢。」是夕闔廬死,夫差既立為王,以伯嚭為太宰,習戰射,三年伐越,敗於夫湫,越王句踐乃以兵五千人棲於會稽山上,使大夫種厚幣遣吳太宰嚭以請和,委國為臣妾,吳王將許之,伍子胥諫曰:「越王為人能辛苦,今王不滅,後必悔之。」吳王不聽,用太宰嚭計與越平。其後五年,吳王聞齊景公死,而大臣爭寵,新君弱,乃興師北伐齊,子胥諫曰:「不可。句踐食不重味,弔死問疾,且能用人,此人不死,必為吳患;今越,腹心之疾,齊猶疥癬耳,而王不先越,乃務伐齊,不亦謬乎?」吳王不聽,伐齊,大敗齊師於艾陵,遂與鄒魯之君會以歸,益疏子胥之言。其後四年,吳將復北伐齊,越王句踐用子胥之謀,乃率其眾以助吳,而重寶以獻遺太宰嚭,太宰嚭既數受越賂,其愛信越殊甚,日夜為言於吳王,王信用嚭之計,伍子胥諫曰:「夫越,腹心之疾,今信其游辭偽詐而貪齊,譬猶石田,無所用之,盤庚曰:『古人有顛越不恭』。是商所以興也,願王釋齊而先越,不然,將悔之無及也。」吳王不聽,使子胥於齊,子胥謂其子曰:「吾諫王,王不我用,吾今見吳之滅矣,女與吳俱亡無為也。」乃屬其子於齊鮑氏而歸報吳王。太宰嚭既與子胥有隙,因讒曰:「子胥為人,剛暴少恩,其怨望猜賊為禍也,深恨前日王欲伐齊,子胥以為不可,王卒伐之,而有大功,子胥計謀不用,乃反怨望;今王又復伐齊,子胥專愎強諫,沮毀用事,徼幸吳之敗,以自勝其計謀耳。今王自行,悉國中武力以伐齊,而子胥諫不用,因輟佯病不行,王不可不備,此起禍不難,且臣使人微伺之,其使齊也,乃屬其子於鮑氏。夫人臣內不得意,外交諸侯,自以先王謀臣,今不用,常怏怏,願王早圖之。」吳王曰:「微子之言,吾亦疑之。」乃使使賜子胥屬鏤之劍,曰:「子以此死。」子胥曰:「嗟乎!讒臣宰嚭為亂,王顧反誅我,我令若父霸,又若立時,諸子弟爭立,我以死爭之於先王,幾不得立,若既立,欲分吳國與我,我顧不敢當,然若之何聽讒臣殺長者!」乃告舍人曰:「必樹吾墓上以梓,令可以為器,而抉吾眼著之吳東門,以觀越寇之滅吳也。」乃自刺殺,吳王聞之大怒,乃取子胥屍,盛以鴟夷革,浮之江中,吳人憐之,乃為立祠於江上,因名曰胥山。後十餘年,越襲吳,吳王還與戰不勝,使大夫行成於越不許,吳王將死曰:「吾以不用子胥之言至於此;令死者無知則已,死者有知,吾何面目以見子胥也?」遂蒙絮覆面而自刎。
新字:吳以伍子胥孫武之謀,西破強楚,北威斉晉,南伐越,越王句践迎擊之,敗吳於姑蘇,傷闔廬指,軍却,闔廬謂太子夫差曰:「爾忘句践殺而父乎?」夫差対曰:「不敢。」是夕闔廬死,夫差既立為王,以伯嚭為太宰,習戦射,三年伐越,敗於夫湫,越王句践乃以兵五千人棲於会稽山上,使大夫種厚幣遣吳太宰嚭以請和,委国為臣妾,吳王将許之,伍子胥諫曰:「越王為人能辛苦,今王不滅,後必悔之。」吳王不聴,用太宰嚭計与越平。其後五年,吳王聞斉景公死,而大臣争寵,新君弱,乃興師北伐斉,子胥諫曰:「不可。句践食不重味,弔死問疾,且能用人,此人不死,必為吳患;今越,腹心之疾,斉猶疥癬耳,而王不先越,乃務伐斉,不亦謬乎?」吳王不聴,伐斉,大敗斉師於艾陵,遂与鄒魯之君会以帰,益疏子胥之言。其後四年,吳将復北伐斉,越王句践用子胥之謀,乃率其眾以助吳,而重宝以献遺太宰嚭,太宰嚭既数受越賂,其愛信越殊甚,日夜為言於吳王,王信用嚭之計,伍子胥諫曰:「夫越,腹心之疾,今信其游辞偽詐而貪斉,譬猶石田,無所用之,盤庚曰:『古人有顛越不恭』。是商所以興也,願王釈斉而先越,不然,将悔之無及也。」吳王不聴,使子胥於斉,子胥謂其子曰:「吾諫王,王不我用,吾今見吳之滅矣,女与吳倶亡無為也。」乃属其子於斉鮑氏而帰報吳王。太宰嚭既与子胥有隙,因讒曰:「子胥為人,剛暴少恩,其怨望猜賊為禍也,深恨前日王欲伐斉,子胥以為不可,王卒伐之,而有大功,子胥計謀不用,乃反怨望;今王又復伐斉,子胥専愎強諫,沮毀用事,徼幸吳之敗,以自勝其計謀耳。今王自行,悉国中武力以伐斉,而子胥諫不用,因輟佯病不行,王不可不備,此起禍不難,且臣使人微伺之,其使斉也,乃属其子於鮑氏。夫人臣内不得意,外交諸侯,自以先王謀臣,今不用,常怏怏,願王早図之。」吳王曰:「微子之言,吾亦疑之。」乃使使賜子胥属鏤之剣,曰:「子以此死。」子胥曰:「嗟乎!讒臣宰嚭為乱,王顧反誅我,我令若父覇,又若立時,諸子弟争立,我以死争之於先王,幾不得立,若既立,欲分吳国与我,我顧不敢当,然若之何聴讒臣殺長者!」乃告舎人曰:「必樹吾墓上以梓,令可以為器,而抉吾眼著之吳東門,以観越寇之滅吳也。」乃自刺殺,吳王聞之大怒,乃取子胥屍,盛以鴟夷革,浮之江中,吳人憐之,乃為立祠於江上,因名曰胥山。後十余年,越襲吳,吳王還与戦不勝,使大夫行成於越不許,吳王将死曰:「吾以不用子胥之言至於此;令死者無知則已,死者有知,吾何面目以見子胥也?」遂蒙絮覆面而自刎。
書き下し
呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた強楚を破り、北のかた斉晋を威し、南のかた越を伐つ。越王句践之を迎え撃ち、呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷つく。軍卻き、闔廬太子夫差に謂いて曰わく、「爾句践の而の父を殺せしを忘れたるか」と。夫差対えて曰わく、「敢えて忘れじ」と。是の夕闔廬死す。夫差既に立ちて王と為り、伯嚭を以て太宰と為し、戦射を習い、三年にして越を伐ち、夫湫に敗る。越王句践乃ち兵五千人を以て会稽山上に棲み、大夫種をして厚幣もて呉の太宰嚭に遣わして以て和を請わしめ、国を委ねて臣妾と為さんとす。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰わく、「越王人と為り能く辛苦す。今王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭の計を用いて越と平らぐ。其の後五年、呉王斉の景公死し、大臣寵を争うと聞き、新君弱しとして、乃ち師を興して北のかた斉を伐たんとす。子胥諫めて曰わく、「不可なり。句践食に味を重ねず、死を弔い疾を問い、且つ能く人を用う。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾なり、斉は猶お疥癬のみ。而るに王越を先にせずして、乃ち務めて斉を伐つは、亦た謬らずや」と。呉王聴かず、斉を伐ち、大いに斉師を艾陵に敗り、遂に鄒魯の君と会して以て帰り、益々子胥の言を疏んず。其の後四年、呉将に復た北のかた斉を伐たんとす。越王句践子胥の謀を用い、乃ち其の衆を率いて以て呉を助け、重宝を以て太宰嚭に献遺す。太宰嚭既に数々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚だし。日夜呉王の為に言を為す。王嚭の計を信用す。伍子胥諫めて曰わく、「夫れ越は、腹心の疾なり。今其の游辞偽詐を信じて斉を貪る、譬えば猶お石田のごとし、用うる所無し。盤庚に曰わく、『古人に顛越して恭ならざる有り』と。是れ商の興る所以なり。願わくは王斉を釈てて越を先にせよ。然らずんば、将に之を悔ゆるも及ぶ無からん」と。呉王聴かず、子胥をして斉に使いせしむ。子胥其の子に謂いて曰わく、「吾王を諫むるも、王吾を用いず、吾今呉の滅ぶるを見んとす。女呉と俱に亡ぶるは為す無きなり」と。乃ち其の子を斉の鮑氏に属して帰りて呉王に報ず。太宰嚭既に子胥と隙有り、因りて讒して曰わく、「子胥の人と為り、剛暴少恩、其の怨望猜賊にして禍を為すなり。深く前日王斉を伐たんと欲するに、子胥以て不可と為すも、王卒に之を伐ちて大功有り、子胥計謀用いられずして、乃ち反りて怨望す。今王又復た斉を伐たんとするに、子胥専愎強諫し、用事を沮毀す。呉の敗るるを徼幸し、以て自ら其の計謀に勝たんとするのみ。今王自ら行き、国中の武力を悉くして以て斉を伐つに、子胥諫めて用いられず、因りて輟して佯病して行かず。王備えざるべからず。此れ禍を起こすこと難からず。且つ臣人をして微かに之を伺わしむるに、其の斉に使いするや、乃ち其の子を鮑氏に属せり。夫れ人臣内に意を得ずして、外諸侯に交わるは、自ら先王の謀臣を以て、今用いられずして、常に怏怏たり。願わくは王早く之を図れ」と。呉王曰わく、「子の言無くんば、吾も亦た之を疑わん」と。乃ち使いをして子胥に属鏤の剣を賜わしめて曰わく、「子此を以て死せよ」と。子胥曰わく、「嗟乎、讒臣宰嚭乱を為す、王顧りて反りて我を誅す。我若の父をして覇たらしめ、又若を立つるに時なり。諸子弟立を争いしとき、我死を以て先王に争い、幾ど立つを得ざりき。若既に立つに及び、呉国を分かちて我に与えんと欲せしも、我顧りて敢えて当らず。然るに若、何ぞ讒臣の長者を殺すを聴くに之けるや」と。乃ち舎人に告げて曰わく、「必ず吾が墓上に樹うるに梓を以てし、器と為すべからしめ、而して吾が眼を抉りて之を呉の東門に著け、以て越寇の呉を滅ぼすを観ん」と。乃ち自ら刺し殺す。呉王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の屍を取り、鴟夷革を以て盛り、之を江中に浮かぶ。呉人之を憐れみ、乃ち祠を江上に立て、因りて名づけて胥山と曰う。後十余年、越呉を襲い、呉王還りて与に戦うも勝たず、大夫をして越に行成せしむるも許されず。呉王将に死せんとして曰わく、「吾子胥の言を用いざるを以て此に至れり。死者知る無くんば則ち已みなん。死者知る有らば、吾何の面目を以て子胥に見えんや」と。遂に絮を蒙りて面を覆いて自ら刎ず。
現代語訳
呉は伍子胥と孫武の策謀によって、西では強大な楚を破り、北では斉・晋を威圧し、南では越を討った。越王句践がこれを迎え撃ち、呉を姑蘇で敗り、闔廬の指に傷を負わせた。呉軍は退却し、闔廬は太子夫差に言った、「お前は句践がお前の父を殺したことを忘れたか」と。夫差は答えた、「決して忘れません」と。その夜、闔廬は死んだ。夫差は即位して王となり、伯嚭を太宰とし、戦術と弓射の訓練を積み、三年後に越を討ったが、夫湫で敗れた。越王句践は五千の兵とともに会稽山に立てこもり、大夫種に厚い贈り物を持たせて呉の太宰嚭のもとへ遣わし、和睦を請わせ、国を挙げて臣下となることを申し出た。呉王はこれを許そうとした。伍子胥が諫めて言った、「越王は人柄として辛苦に耐える人物です。今、王が滅ぼさなければ、後に必ずこれを悔やむことになるでしょう」と。呉王は聞き入れず、太宰嚭の策を用いて越と和睦した。その後五年、呉王は斉の景公が死に、大臣たちが寵を争って新君が弱いと聞き、軍を興して北の斉を討とうとした。子胥は諫めて言った、「いけません。句践は食事に贅を重ねず、死者を弔い病人を見舞い、しかも人材を活用できる人物です。この人物が死なない限り、必ず呉の禍となるでしょう。今、越は心臓部に巣くう病であり、斉はまだ疥癬程度のものです。それなのに王が越を後回しにして斉を討つことに務めるのは、間違っているのではないでしょうか」と。呉王は聞き入れず、斉を討ち、艾陵で斉軍を大いに破り、そのまま鄒・魯の君主と会見して帰国し、ますます子胥の言葉を疎んじるようになった。その四年後、呉は再び北の斉を討とうとした。越王句践は子胥の予測通りに動き、自らの軍勢を率いて呉を助け、貴重な宝物を太宰嚭に献上した。太宰嚭はすでに何度も越の賄賂を受け取っており、越を非常に信頼し可愛がっていた。彼は昼も夜も呉王のために越に有利な進言をした。王は嚭の策を信用した。伍子胥は諫めて言った、「越は心臓部の病です。今その巧言や偽りの言葉を信じて斉を欲しがるのは、たとえるなら石だらけの田を求めるようなもので、何の役にも立ちません。盤庚(殷の王)は『昔の人には道理に背いて恭順しない者がいた』と言いました。これが商(殷)が興った理由です。どうか王には斉を捨てて越を先に討っていただきたい。さもなくば、後悔しても及びません」と。呉王は聞き入れず、子胥に斉への使者を命じた。子胥は自分の子に言った、「私は王を諫めたが、王は私を用いない。私は今、呉が滅びるのを見ることになるだろう。お前が呉と共に滅びる必要はない」と。そして子を斉の鮑氏に預け、帰国して呉王に復命した。太宰嚭はすでに子胥と対立していたので、これに乗じて讒言して言った、「子胥の人柄は、剛直で暴っぽく、情に薄く、恨みを抱いて陰謀を企てる性質で、禍のもとです。以前、王が斉を討とうとしたとき、子胥は不可だとしましたが、王は結局これを討って大きな功績を挙げました。子胥は自分の計略が用いられなかったことで、かえって恨みを抱くようになりました。今、王がまた斉を討とうとすると、子胥は頑固に強く諫め、事業を妨害しています。呉が敗れることを密かに期待し、自分の計略が正しかったことを証明しようとしているだけです。今、王自ら出陣し、国中の武力を尽くして斉を討とうとしているのに、子胥は諫言が用いられないからと、病と偽って従軍しません。王は警戒すべきです。これは禍を起こすことは難しくありません。しかも私が人に密かに探らせたところ、彼が斉に使いした際、自分の子を鮑氏に預けたとのことです。臣下が国内で意を得ず、外で諸侯と交わるのは、自分を先王の謀臣であったと自負し、今用いられないことに常に不満を抱いているからです。どうか王には早くこれに対処していただきたい」と。呉王は言った、「お前の言葉がなくとも、私もまた疑っていた」と。そして使者に命じて子胥に属鏤の剣を与えて言わせた、「お前はこれで死ね」と。子胥は言った、「ああ、讒言する臣、太宰嚭が乱を為し、王はかえって私を誅する。私はお前の父を覇者にならしめ、またお前を太子に立てるのに力を尽くした。諸公子が太子の座を争ったとき、私は死を賭して先王に諫言し、危うくお前は立てなかったところであった。お前が即位した後、呉国を分けて私に与えようとしたが、私はあえてそれを受けなかった。それなのに、お前はどうして讒言する臣の言葉を聞いて年長者を殺すことになったのか」と。そして側近に告げて言った、「必ず私の墓の上に梓の木を植え、それが棺桶の材木として使えるようにせよ。そして私の両目をえぐり取り、それを呉の東門に懸けよ。それによって越の賊軍が呉を滅ぼすのを見届けよう」と。そして自ら首を刎ねて死んだ。呉王はこれを聞いて激怒し、子胥の屍を取り、皮袋に詰めて長江に浮かべた。呉の人々はこれを憐れみ、川岸に祠を建てた。それにちなんでその山を胥山と名づけた。その後十数年、越が呉を襲い、呉王は帰還して戦ったが勝てず、大夫に命じて越に和睦を求めさせたが許されなかった。呉王は死に際して言った、「私は子胥の言葉を用いなかったために、このようなことになった。死者に知覚がなければそれでよいが、死者に知覚があるなら、私はどんな顔をして子胥に会えばよいのか」と。そして布で顔を覆い、自ら首を刎ねて死んだ。
解説
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史記 伍子胥列伝後五年、越を伐つ。越王句踐迎へ撃ち、呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷つく。軍卻く。闔廬創に病み将に死せんとして、太子夫差に謂ひて曰く、「爾、句踐の爾の父を殺ししを忘るるか」と。夫差対へて曰く、「敢て忘れじ」と。是の夕、闔廬死す。夫差既に立ちて王と為り、伯嚭を以て太宰と為し、戦射を習ふ。二年の後、越を伐ち、越を夫湫に敗る。越王句踐乃ち余兵五千人を以て会稽の上に棲み、大夫種をして幣を厚くし呉の太宰嚭に遺りて以て和を請ひ、国を委ねて臣妾と為らんことを求めしむ。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰く、「越王の人と為りは能く辛苦す。今王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭の計を用ゐ、越と平らぐ。
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呂氏春秋・知化②呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊と呉とは、習俗同じからず、言語通ぜず。我、其の地を得るとも處ること能わず、其の民を得るとも使うことを得ず。夫れ呉と越とは、土を接し境を鄰し、壤交わり通屬なり、習俗同じ、言語通ず。我、其の地を得ば、能く之に處り、其の民を得ば、能く之を使う。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉・越の勢いは兩立せず。越の呉に於けるや、譬えば心腹の疾の若きなり。作ること無しと雖も、其の傷は深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しまざれば其れ已むなり。且つ其れ傷うこと無きなり。今、越を釋てて齊を伐つは、之を譬うれば猶ほ虎を懼れて猏を刺すがごとし。之に勝つと雖も、其の後患央くること無し。」太宰嚭曰く、「不可なり。君王の令、上國に行われざる所以の者は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之に勝ち、其の兵を徙して以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王、一舉して兩國を服すなり。君王の令、必ず上國に行われん。」夫差以て然りと為し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用う。子胥曰く、「天將に呉を亡ぼさんとせば、則ち君王をして戰いて勝たしめん。天將に呉を亡ぼさざらんとせば、則ち君王をして戰いて勝たざらしめん。」夫差聽かず。子胥、兩袪高蹶して、廷を出でて曰く、「嗟乎、呉の朝必ず荊棘を生ぜん。」夫差、師を興し齊を伐ち、艾陵に戰い、大いに齊の師を敗り、反りて子胥を誅す。子胥將に死せんとして曰く、「與、吾安くにか一目を得て、以て越人の呉に入るを視ん。」乃ち自殺す。夫差乃ち其の身を取りて、之を江に流し、其の目を抉りて、之を東門に著き、曰く、「女胡ぞ越人の我に入るを視ん。」居ること數年、越、呉に報い、其の國を殘い、其の世を絕ち、其の社稷を滅ぼし、其の宗廟を夷げ、夫差は身擒と為る。夫差將に死せんとして曰く、「死者如し知る有らば、吾何の面ありて以て子胥を地下に見ん。」乃ち幎を為りて以て面を冒いて死す。夫れ患い未だ至らざれば、則ち告ぐ可からざるなり。患既に至れば、之を知ると雖も及ぶこと無し。故に夫差の子胥に慚づることを知れるは、知ること勿きに若かず。
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史記 呉太伯世家呉王夫差、齊を伐たんと欲す。子胥諫めて曰く、「越王句踐食に味を重ねず、衣に采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ、且つ其の衆を用ゐんとする所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在りて王先んぜず、而して齊を務む、亦た謬らずや」と。呉王聴かず。呉王大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅ぼすを観ん」と。越呉を囲み、呉王曰く、「吾子胥の言を用ゐざるを悔ゆ、自ら此に陥らしむ」と。遂に自剄して死す。