史記 / 伍子胥列伝
吳王既誅伍子胥、遂伐齊。齊鮑氏殺其君悼公而立陽生。吳王欲討其賊、不勝而去。其後二年、吳王召魯衛之君會之橐皋。其明年、因北大會諸侯於黃池、以令周室。越王句踐襲殺吳太子、破吳兵。吳王聞之、乃歸、使使厚幣與越平。後九年、越王句踐遂滅吳、殺王夫差。而誅太宰嚭、以不忠於其君、而外受重賂、與己比周也。
新字:吳王既誅伍子胥、遂伐斉。斉鮑氏殺其君悼公而立陽生。吳王欲討其賊、不勝而去。其後二年、吳王召魯衛之君会之橐皋。其明年、因北大会諸侯於黄池、以令周室。越王句践襲殺吳太子、破吳兵。吳王聞之、乃帰、使使厚幣与越平。後九年、越王句践遂滅吳、殺王夫差。而誅太宰嚭、以不忠於其君、而外受重賂、与己比周也。
書き下し
呉王既に伍子胥を誅し、遂に斉を伐つ。斉の鮑氏其の君悼公を殺して陽生を立つ。呉王其の賊を討たんと欲し、勝たずして去る。其の後二年、呉王魯・衛の君を召して之を橐皋に会す。其の明年、因りて北のかた大いに諸侯を黄池に会し、以て周室に令す。越王句踐、襲ひて呉の太子を殺し、呉の兵を破る。呉王之を聞き、乃ち帰り、使ひをして幣を厚くして越と平らぐ。後九年、越王句踐遂に呉を滅ぼし、王夫差を殺す。而して太宰嚭を誅す、其の君に不忠にして、外に重賂を受け、己と比周せるを以てなり。
現代語訳
呉王は伍子胥を誅したのち、そのまま斉を討った。斉では鮑氏が君主の悼公を殺して陽生を立てた。呉王はその賊を討とうとしたが、勝てずに引き揚げた。その二年後、呉王は魯と衛の君主を呼び、橐皋で会盟した。翌年には北へ出て諸侯を黄池に大々的に集め、周王室に号令しようとした。その隙に越王句踐が襲いかかり、呉の太子を殺し、呉軍を破った。呉王はこれを聞いて帰国し、使者を立てて厚い贈り物とともに越と和睦した。九年後、越王句踐はついに呉を滅ぼし、王夫差を殺した。そして太宰嚭も誅殺した。主君に不忠であり、外から多額の賄賂を受け、自分(句踐)と通じていたからである。
解説
忠臣を殺した組織が、その予言どおりに滅亡へ向かう因果の成就を描いた一段です。伍子胥を殺した夫差は、その虚栄心のままに黄池で諸侯を集めて覇者を気取ります。しかしその隙を突いて、まさに伍子胥が警告し続けた越の句踐が呉の太子を殺し、軍を破る。そして九年後、ついに越は呉を滅ぼし、夫差を殺します。伍子胥の『目をえぐって東門に懸けよ、越が呉を滅ぼすのを見届ける』という呪詛は、現実となったのです。組織の教訓は極めて明快です。正しい警告を発する忠臣を排除した組織は、その警告どおりの結末を迎える。目先の虚栄(覇者の見栄)を追い、本質的なリスク(越)を放置した代償は、組織そのものの消滅でした。そして注目すべきは、越を滅ぼした句踐が、真っ先に太宰・伯嚭を「主君に不忠で、賄賂を受け、内通した」罪で処刑した点です。裏切りと私利で組織を腐らせた者は、たとえ一時的に利益を得ても、勝者からも信用されず、最後は誅される。忠義を貫いて死んだ伍子胥は祠に祀られ、私利で国を売った伯嚭は誅殺される——因果の対比が、静かに、しかし決定的に描かれます。
この章句が説くこと
因果応報忠臣排除の代償虚栄リスクの放置呉の滅亡裏切り者の末路
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史記 呉太伯世家呉王夫差、齊を伐たんと欲す。子胥諫めて曰く、「越王句踐食に味を重ねず、衣に采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ、且つ其の衆を用ゐんとする所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在りて王先んぜず、而して齊を務む、亦た謬らずや」と。呉王聴かず。呉王大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅ぼすを観ん」と。越呉を囲み、呉王曰く、「吾子胥の言を用ゐざるを悔ゆ、自ら此に陥らしむ」と。遂に自剄して死す。
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呂氏春秋・知化②呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊と呉とは、習俗同じからず、言語通ぜず。我、其の地を得るとも處ること能わず、其の民を得るとも使うことを得ず。夫れ呉と越とは、土を接し境を鄰し、壤交わり通屬なり、習俗同じ、言語通ず。我、其の地を得ば、能く之に處り、其の民を得ば、能く之を使う。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉・越の勢いは兩立せず。越の呉に於けるや、譬えば心腹の疾の若きなり。作ること無しと雖も、其の傷は深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しまざれば其れ已むなり。且つ其れ傷うこと無きなり。今、越を釋てて齊を伐つは、之を譬うれば猶ほ虎を懼れて猏を刺すがごとし。之に勝つと雖も、其の後患央くること無し。」太宰嚭曰く、「不可なり。君王の令、上國に行われざる所以の者は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之に勝ち、其の兵を徙して以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王、一舉して兩國を服すなり。君王の令、必ず上國に行われん。」夫差以て然りと為し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用う。子胥曰く、「天將に呉を亡ぼさんとせば、則ち君王をして戰いて勝たしめん。天將に呉を亡ぼさざらんとせば、則ち君王をして戰いて勝たざらしめん。」夫差聽かず。子胥、兩袪高蹶して、廷を出でて曰く、「嗟乎、呉の朝必ず荊棘を生ぜん。」夫差、師を興し齊を伐ち、艾陵に戰い、大いに齊の師を敗り、反りて子胥を誅す。子胥將に死せんとして曰く、「與、吾安くにか一目を得て、以て越人の呉に入るを視ん。」乃ち自殺す。夫差乃ち其の身を取りて、之を江に流し、其の目を抉りて、之を東門に著き、曰く、「女胡ぞ越人の我に入るを視ん。」居ること數年、越、呉に報い、其の國を殘い、其の世を絕ち、其の社稷を滅ぼし、其の宗廟を夷げ、夫差は身擒と為る。夫差將に死せんとして曰く、「死者如し知る有らば、吾何の面ありて以て子胥を地下に見ん。」乃ち幎を為りて以て面を冒いて死す。夫れ患い未だ至らざれば、則ち告ぐ可からざるなり。患既に至れば、之を知ると雖も及ぶこと無し。故に夫差の子胥に慚づることを知れるは、知ること勿きに若かず。
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