説苑 / 正諫
秦始皇帝太后不謹,幸郎嫪毐,封以為長信侯,為生兩子,毐專國事,浸益驕奢,與侍中左右貴臣俱博飲,酒醉爭言而鬥,瞋目大叱曰:「吾乃皇帝之假父也,窶人子何敢乃與我亢!」所與鬥者走行白皇帝,皇帝大怒,毐懼誅,因作亂,戰咸陽宮。毐敗,始皇乃取毐四肢車裂之,取其兩弟囊撲殺之,取皇太后遷之于萯陽宮,下令曰:「敢以太后事諫者,戮而殺之!」從蒺藜其脊肉,幹四肢而積之闕下,諫而死者二十七人矣。齊客茅焦乃往上謁曰:「齊客茅焦願上諫皇帝。」皇帝使使者出問客,得無以太后事諫也,茅焦曰然,使者還白曰:「果以太后事諫。」皇帝曰走往告之,若不見闕下積死人邪?使者問茅焦,茅焦曰:「臣聞之天有二十八宿,今死者已有二十七人矣,臣所以來者,欲滿其數耳,臣非畏死人也。」走入白之,茅焦邑子,同食者盡負其衣物行亡,使者入白之,皇帝大怒曰:「是子故來犯吾禁,趣炊鑊湯煮之,是安得積闕下乎!」趣召之入,皇帝按劍而坐,口正沫出,使者召之入,茅焦不肯疾行,足趣相過耳,使者趣之,茅焦曰:「臣至前則死矣,君獨不能忍吾須臾乎?」使者極哀之,茅焦至前再拜謁起,稱曰:「臣聞之,夫有生者不諱死,有國者不諱亡;諱死者不可以得生,諱亡者不可以得存。死生存亡,聖主所欲急聞也,不審陛下欲聞之不?」皇帝曰:「何謂也?」茅焦對曰:「陛下有狂悖之行,陛下不自知邪!」皇帝曰:「何等也?願聞之。」茅焦對曰:「陛下車裂假父,有嫉妒之心;囊撲兩弟,有不慈之名;遷母萯陽宮,有不孝之行;從蒺藜於諫士,有桀紂之治。今天下聞之,盡瓦解無嚮秦者,臣竊恐秦亡為陛下危之,所言已畢,乞行就質。」乃解衣伏質。皇帝下殿,左手接之,右手麾左右曰:「赦之,先生就衣,今願受事。」乃立焦為仲父,爵之上卿;皇帝立駕,千乘萬騎,空左方自行迎太后萯陽宮,歸於咸陽;太后大喜,乃大置酒待茅焦,及飲,太后曰:「抗枉令直,使敗更成,安秦之社稷;使妾母子復得相會者,盡茅君之力也。」
新字:秦始皇帝太后不謹,幸郎嫪毐,封以為長信侯,為生両子,毐専国事,浸益驕奢,与侍中左右貴臣倶博飲,酒酔争言而鬥,瞋目大叱曰:「吾乃皇帝之仮父也,窶人子何敢乃与我亢!」所与鬥者走行白皇帝,皇帝大怒,毐懼誅,因作乱,戦咸陽宮。毐敗,始皇乃取毐四肢車裂之,取其両弟嚢撲殺之,取皇太后遷之于萯陽宮,下令曰:「敢以太后事諫者,戮而殺之!」従蒺藜其脊肉,幹四肢而積之闕下,諫而死者二十七人矣。斉客茅焦乃往上謁曰:「斉客茅焦願上諫皇帝。」皇帝使使者出問客,得無以太后事諫也,茅焦曰然,使者還白曰:「果以太后事諫。」皇帝曰走往告之,若不見闕下積死人邪?使者問茅焦,茅焦曰:「臣聞之天有二十八宿,今死者已有二十七人矣,臣所以来者,欲満其数耳,臣非畏死人也。」走入白之,茅焦邑子,同食者尽負其衣物行亡,使者入白之,皇帝大怒曰:「是子故来犯吾禁,趣炊鑊湯煮之,是安得積闕下乎!」趣召之入,皇帝按剣而坐,口正沫出,使者召之入,茅焦不肯疾行,足趣相過耳,使者趣之,茅焦曰:「臣至前則死矣,君独不能忍吾須臾乎?」使者極哀之,茅焦至前再拝謁起,称曰:「臣聞之,夫有生者不諱死,有国者不諱亡;諱死者不可以得生,諱亡者不可以得存。死生存亡,聖主所欲急聞也,不審陛下欲聞之不?」皇帝曰:「何謂也?」茅焦対曰:「陛下有狂悖之行,陛下不自知邪!」皇帝曰:「何等也?願聞之。」茅焦対曰:「陛下車裂仮父,有嫉妬之心;嚢撲両弟,有不慈之名;遷母萯陽宮,有不孝之行;従蒺藜於諫士,有桀紂之治。今天下聞之,尽瓦解無嚮秦者,臣窃恐秦亡為陛下危之,所言已畢,乞行就質。」乃解衣伏質。皇帝下殿,左手接之,右手麾左右曰:「赦之,先生就衣,今願受事。」乃立焦為仲父,爵之上卿;皇帝立駕,千乗万騎,空左方自行迎太后萯陽宮,帰於咸陽;太后大喜,乃大置酒待茅焦,及飲,太后曰:「抗枉令直,使敗更成,安秦之社稷;使妾母子復得相会者,尽茅君之力也。」
書き下し
秦の始皇帝、太后謹まず、郎の嫪毐に幸し、封じて長信侯と為し、為に両子を生ましむ。毐国事を専らにし、浸く益々驕奢にして、侍中左右の貴臣と俱に博飲す。酒酔いて言を争いて闘い、瞋目大叱して曰わく、「吾は乃ち皇帝の仮父なり。窶人の子、何ぞ敢えて乃ち我と亢せんや」と。与に闘う者走りて行きて皇帝に白す。皇帝大いに怒る。毐誅を懼れ、因りて乱を作し、咸陽宮に戦う。毐敗れ、始皇乃ち毐の四肢を取りて之を車裂す。其の両弟を取りて嚢撲殺す。皇太后を取りて之を萯陽宮に遷す。令を下して曰わく、「敢えて太后の事を以て諫むる者あらば、戮して之を殺さん」と。蒺藜を従えて其の脊肉に、四肢を幹して之を闕下に積む。諫めて死する者二十七人なり。斉の客茅焦乃ち往きて上謁して曰わく、「斉の客茅焦、上りて皇帝を諫めんことを願う」と。皇帝使者をして出でて客に問わしむ。太后の事を以て諫むる無きを得んかと。茅焦然りと曰う。使者還りて白して曰わく、「果たして太后の事を以て諫む」と。皇帝曰わく、走りて往きて之に告げよ、若、闕下に積める死人を見ざるかと。使者茅焦に問う。茅焦曰わく、「臣之を聞く、天に二十八宿有り、今死する者已に二十七人有り。臣の来たる所以の者は、其の数を満たさんと欲するのみ。臣人の死するを畏るるに非ざるなり」と。走りて入りて之を白す。茅焦の邑子、食を同じくする者尽く其の衣物を負いて行きて亡ぐ。使者入りて之を白す。皇帝大いに怒りて曰わく、「是の子故に来たりて吾が禁を犯す。趣ちに鑊湯を炊きて之を煮よ。是れ安んぞ闕下に積むを得んや」と。趣ちに之を召し入れしむ。皇帝剣を按じて坐す。口正に沫出づ。使者之を召し入る。茅焦疾行するを肯んぜず、足趣きて相過ぎるのみ。使者之を趣す。茅焦曰わく、「臣前に至らば則ち死せん。君独り吾が須臾を忍ぶ能わざるか」と。使者極めて之を哀れむ。茅焦前に至りて再拝謁起し、称して曰わく、「臣之を聞く、夫れ生有る者は死を諱まず、国有る者は亡を諱まず。死を諱む者は以て生を得べからず、亡を諱む者は以て存を得べからず。死生存亡は、聖主の急に聞かんと欲する所なり。審らかならず、陛下之を聞かんと欲するや不や」と。皇帝曰わく、「何の謂いぞや」と。茅焦対えて曰わく、「陛下狂悖の行有り、陛下自ら知らざるか」と。皇帝曰わく、「何等ぞや、聞かんことを願う」と。茅焦対えて曰わく、「陛下仮父を車裂す、嫉妒の心有り。両弟を嚢撲す、不慈の名有り。母を萯陽宮に遷す、不孝の行有り。蒺藜を諫士に従う、桀紂の治有り。今天下之を聞かば、尽く瓦解して秦に嚮う者無からん。臣竊かに秦の亡ぶるを恐れ、陛下の為に之を危ぶむ。言う所已に畢わる。行きて質に就かんことを乞う」と。乃ち衣を解きて質に伏す。皇帝殿を下り、左手に之を接し、右手に左右を麾りて曰わく、「之を赦せ。先生衣に就け、今事を受けんことを願う」と。乃ち焦を立てて仲父と為し、之に上卿を爵す。皇帝駕を立て、千乗万騎、左方を空しくして自ら行きて太后を萯陽宮に迎え、咸陽に帰る。太后大いに喜び、乃ち大いに酒を置きて茅焦を待つ。飲むに及び、太后曰わく、「枉を抗げて直に令め、敗を使て更に成らしめ、秦の社稷を安んず。妾が母子をして復た相会うを得しむる者は、尽く茅君の力なり」と。
現代語訳
秦の始皇帝の太后は身持ちが良くなく、郎官の嫪毐を寵愛し、彼を長信侯に封じ、二人の子を生ませた。嫪毐は国政を独占し、しだいに驕り高ぶって、侍中や側近の貴臣たちと賭け事や酒宴に興じた。ある時酒に酔って口論となり、目をむいて大声で叱って言った、「私は皇帝の仮の父だ。貧しい家の子のくせに、どうして私に楯突くのか」と。争った相手は走って皇帝に告げ口をした。皇帝は激怒した。嫪毐は誅殺されることを恐れ、そのため反乱を起こし、咸陽宮で戦った。嫪毐は敗れ、始皇はその四肢を車裂きの刑に処した。彼の二人の弟は袋に詰めて撲殺した。皇太后は萯陽宮に幽閉した。そして命令を下して言った、「あえて太后の事について諫める者があれば、処刑する」と。諫めた者の背には蒺藜(いばら)を打ちつけ、四肢を引き裂いて宮殿の門の前に積み上げた。諫めて死んだ者は二十七人になった。斉の客人、茅焦がそこへ行って謁見を願い出て言った、「斉の客、茅焦が皇帝を諫めたく存じます」と。皇帝は使者に命じ、太后の事について諫めるのではないかを客に尋ねさせた。茅焦は「その通りだ」と言った。使者が戻って報告した、「案の定、太后の事について諫めるつもりです」と。皇帝は言った、「行って告げよ、お前は宮殿の門に積まれた死体を見ていないのか」と。使者が茅焦に尋ねた。茅焦は言った、「私はこう聞いています。天には二十八宿があり、今死んだ者はすでに二十七人。私が来た理由は、その数を満たすためだけです。私は人が死ぬのを恐れているのではありません」と。使者は走って戻りこれを報告した。茅焦の同郷の者、食事を共にしていた者たちは皆、荷物を背負って逃げ出した。使者が入ってこれを報告すると、皇帝は激怒して言った、「この者はわざわざ来て私の禁令を犯した。すぐに大釜の湯を煮立て、彼を煮よ。これでどうして門前に死体を積み上げられずにいられようか」と。すぐに彼を呼び入れさせた。皇帝は剣を握って座り、口からは泡が出ていた。使者が彼を呼び入れたが、茅焦は急いで歩こうとせず、ゆっくりと歩みを進めるだけだった。使者が急がせると、茅焦は言った、「私は前に進めば死ぬだけです。あなたは私のわずかな時間さえ我慢できないのですか」と。使者はひどく彼を気の毒に思った。茅焦は御前に進み出て再拝して立ち上がり、申し上げた、「私はこう聞いています。生きている者は死を忌避せず、国を持つ者は滅亡を忌避しないと。死を忌避する者は生を得ることができず、滅亡を忌避する者は存続を得ることができません。死生存亡は、聖明な君主が真っ先に聞きたいと望むものです。陛下はこれをお聞きになりたいでしょうか」と。皇帝は「何が言いたいのか」と言った。茅焦は答えた、「陛下には狂気じみた行いがございますが、陛下はご自身でお気づきではないのですか」と。皇帝は「それは何か、聞きたい」と言った。茅焦は答えた、「陛下は仮の父を車裂きにされました。これは嫉妬の心によるものです。二人の弟君を袋詰めにして撲殺されました。これは不慈の評判を招きます。母君を萯陽宮に遷されました。これは不孝の行いです。諫める士にいばらを打ちつけられました。これは桀紂のような暴政です。今、天下がこれを聞けば、皆瓦解して秦に心を寄せる者はいなくなるでしょう。私はひそかに秦が滅びることを恐れ、陛下のために危惧しております。申し上げることは以上です。刑に服することを願います」と。そして衣を脱いで処刑台に伏した。皇帝は御殿を下り、左手で彼を抱き起こし、右手で左右の者に合図して言った、「彼を赦せ。先生、衣を着けなさい。今より意見を受け入れよう」と。そして茅焦を仲父に立て、上卿の爵位を授けた。皇帝は車駕を用意し、千台の車、万の騎馬をもって、自らも左側の席を空けて太后を萯陽宮に迎えに行き、咸陽に連れ帰った。太后は大いに喜び、盛大な酒宴を開いて茅焦をもてなした。酒を酌み交わす中で太后は言った、「曲がったことをまっすぐに正し、破綻を修復させて、秦の社稷を安んじてくれました。私たち母子を再び会わせてくれたのは、すべて茅君の力です」と。
解説

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