説苑 / 尊賢
齊桓公使管仲治國,管仲對曰:「賤不能臨貴。」桓公以為上卿而國不治,桓公曰何故?管仲對曰:「貧不能使富。」桓公賜之齊國市租一年而國不治,桓公曰何故?對曰:「疏不能制親。」桓公立以為仲父。齊國大安,而遂霸天下。孔子曰:「管仲之賢,不得此三權者,亦不能使其君南面而霸矣。」
新字:斉桓公使管仲治国,管仲対曰:「賤不能臨貴。」桓公以為上卿而国不治,桓公曰何故?管仲対曰:「貧不能使富。」桓公賜之斉国市租一年而国不治,桓公曰何故?対曰:「疏不能制親。」桓公立以為仲父。斉国大安,而遂覇天下。孔子曰:「管仲之賢,不得此三権者,亦不能使其君南面而覇矣。」
書き下し
斉の桓公、管仲をして国を治めしむ。管仲対えて曰く、「賤は貴に臨む能わず」と。桓公以て上卿と為すも国治まらず。桓公曰く、「何の故ぞ」と。管仲対えて曰く、「貧は富を使う能わず」と。桓公之に斉国の市租一年を賜うも国治まらず。桓公曰く、「何の故ぞ」と。対えて曰く、「疏は親を制する能わず」と。桓公立てて仲父と為す。斉国大いに安んじ、遂に天下に覇たり。孔子曰く、「管仲の賢も、此の三権を得ざれば、亦其の君をして南面して覇たらしむる能わざりき」と。
現代語訳
斉の桓公が管仲に国を治めさせようとした。管仲は「身分の低い者は身分の高い者の上には立てません」と答えた。そこで桓公は管仲を上卿としたが、それでも国は治まらなかった。桓公が「何故か」と問うと、管仲は「貧しい者は富める者を使うことはできません」と答えた。そこで桓公は斉国の市場の租税一年分を管仲に与えたが、それでも国は治まらなかった。桓公が「何故か」と問うと、管仲は「(君主と)疎遠な者は(君主と)近しい者を制することはできません」と答えた。そこで桓公は管仲を立てて「仲父」とした。すると斉国は大いに安定し、ついに天下に覇を唱えるに至った。孔子は言った。「管仲ほどの賢者でも、この三つの権限を得なければ、その主君を南面させ覇者たらしめることはできなかっただろう」と。
解説

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