説苑 / 政理
宓子賤治單父,彈鳴琴,身不下堂而單父治。巫馬期亦治單父,以星出,以星入,日夜不出,以身親之,而單父亦治。巫馬期問其故於宓子賤,宓子賤曰:「我之謂任人,子之謂任力;任力者固勞,任人者固佚。」人曰宓子賤,則君子矣,佚四肢,全耳目,平心氣而百官治,任其數而已矣。巫馬期則不然,弊性事情,勞煩教詔,雖治猶未至也。
新字:宓子賤治単父,弾鳴琴,身不下堂而単父治。巫馬期亦治単父,以星出,以星入,日夜不出,以身親之,而単父亦治。巫馬期問其故於宓子賤,宓子賤曰:「我之謂任人,子之謂任力;任力者固労,任人者固佚。」人曰宓子賤,則君子矣,佚四肢,全耳目,平心気而百官治,任其数而已矣。巫馬期則不然,弊性事情,労煩教詔,雖治猶未至也。
書き下し
宓子賤、單父を治むるに、鳴琴を弾じ、身堂を下らずして單父治まる。巫馬期も亦單父を治む、星を以て出で、星を以て入り、日夜出でず、身を以て之に親しみて、單父も亦治まる。巫馬期其の故を宓子賤に問う。宓子賤曰く、「我は之を任人と謂い、子は之を任力と謂う。任力なる者は固より労し、任人なる者は固より佚す」と。人、宓子賤を君子なりと曰う。四肢を佚にし、耳目を全うし、心気を平らかにして百官治まる、其の数に任ずるのみ。巫馬期は則ち然らず、性情を弊し、教詔に労煩す、治むと雖も猶未だ至らざるなり。
現代語訳
宓子賤は単父を治めるにあたり、琴を弾じているだけで、自ら役所の堂を下りることなく単父はよく治まった。巫馬期もまた単父を治めたが、彼は星のあるうちに家を出て、星のあるうちに帰り、昼夜休まず自ら現場に出向いて働き、それでも単父はよく治まった。巫馬期がその理由を宓子賤に尋ねると、宓子賤は言った。「私のやり方は人に任せることであり、あなたのやり方は自分の力に頼ることだ。力に頼る者は当然骨が折れ、人に任せる者は当然楽である。」人々は宓子賤を評して君子だと言った。手足を休め、耳目を保ち、心を平静に保ちながら、あらゆる役人がよく治まったのは、ただ適材を適所に用いる術に任せたからである。巫馬期はそうではなく、心身をすり減らし、教え諭すことに苦労を重ねた。治まったとはいえ、まだ理想の境地には至っていない。
解説

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