説苑 / 復恩
平原君既歸趙,楚使春申君將兵救趙,魏信陵君亦矯奪晉鄙軍往救趙,未至,秦急圍邯鄲,邯鄲急且降,平原君患之,邯鄲傳舍吏子李談謂平原君曰:「君不憂趙亡乎?」平原君曰:「趙亡即勝虜,何為不憂?」李談曰:「邯鄲之民,炊骨易子而食之,可謂至困;而君之後宮數百,婦妾荷綺縠,廚餘粱肉;士民兵盡,或剡木為矛戟;而君之器物鐘磬自恣,若使秦破趙,君安得有此?使趙而全,君何患無有?君誠能令夫人以下,編於士卒間,分工而作之,家所有盡散以饗食士,方其危苦時易為惠耳。」於是平原君如其計,而勇敢之士三千人皆出死,因從李談赴秦軍,秦軍為卻三十里,亦會楚魏救至,秦軍遂罷。李談死,封其父為孝侯。
新字:平原君既帰趙,楚使春申君将兵救趙,魏信陵君亦矯奪晉鄙軍往救趙,未至,秦急囲邯鄲,邯鄲急且降,平原君患之,邯鄲伝舎吏子李談謂平原君曰:「君不憂趙亡乎?」平原君曰:「趙亡即勝虜,何為不憂?」李談曰:「邯鄲之民,炊骨易子而食之,可謂至困;而君之後宮数百,婦妾荷綺縠,廚余粱肉;士民兵尽,或剡木為矛戟;而君之器物鐘磬自恣,若使秦破趙,君安得有此?使趙而全,君何患無有?君誠能令夫人以下,編於士卒間,分工而作之,家所有尽散以饗食士,方其危苦時易為恵耳。」於是平原君如其計,而勇敢之士三千人皆出死,因従李談赴秦軍,秦軍為却三十里,亦会楚魏救至,秦軍遂罷。李談死,封其父為孝侯。
書き下し
平原君既に趙に帰り、楚使ひ春申君兵を将ゐて趙を救ふ、魏の信陵君も亦た晋鄙の軍を矯め奪ひて往きて趙を救ふ、未だ至らざるに、秦急に邯鄲を囲み、邯鄲急にして且に降らんとす、平原君之を患ふ、邯鄲の伝舎の吏の子李談平原君に謂ひて曰く、「君趙の亡びんことを憂へざるか」と。平原君曰く、「趙亡べば即ち勝虜とならん、何為れぞ憂へざらん」と。李談曰く、「邯鄲の民、骨を炊ぎ子を易へて之を食らふ、至困と謂ふべし、而るに君の後宮数百、婦妾綺縠を荷ひ、廚に粱肉余る、士民兵尽き、或いは木を剡りて矛戟と為すに、君の器物鐘磬自ら恣にす、若し秦をして趙を破らしめば、君安んぞ此を有つを得んや、趙をして全からしめば、君何ぞ有る無きを患へん、君誠に能く夫人以下をして、士卒の間に編せしめ、工を分ちて之を作さしめ、家の有する所尽く散じて以て士を饗せしめば、方に其の危苦の時、恵と為し易きのみ」と。是に於て平原君其の計の如くす、而して勇敢の士三千人皆死に出づ、因りて李談に従ひて秦軍に赴く、秦軍為に卻くこと三十里、亦た楚魏の救ひ至るに会ふ、秦軍遂に罷む。李談死し、其の父を封じて孝侯と為す。
現代語訳
平原君がすでに趙に帰国していたころ、楚は春申君に兵を率いさせて趙を救援させ、魏の信陵君もまた晋鄙の軍勢を偽って奪い取って趙の救援に向かっていたが、まだ到着しないうちに、秦が急ぎ邯鄲を包囲し、邯鄲は危急に瀕して今にも降伏しそうな状況であった。平原君はこれを憂えていた。邯鄲の宿駅の役人の子である李談が平原君に言った、「あなたは趙が滅びることを憂えないのですか」と。平原君は「趙が滅びれば私は捕虜となる。どうして憂えずにいられようか」と答えた。李談は言った、「邯鄲の民は、骨を燃やして煮炊きし、我が子を交換して食べるほどの窮状にあります。まさに極限の困窮と言えましょう。それなのに、あなたの後宮には数百人の女性がおり、その侍女たちは美しい絹を身にまとい、台所には穀物と肉が余っています。士や民は兵器も尽き、あるものは木を削って矛や戟の代わりにしているというのに、あなたの持つ器物や楽器は変わらず自分の楽しみのために使われています。もし秦に趙を滅ぼされてしまえば、あなたはどうしてこれらを保っていられましょうか。趙が無事であれば、あなたはどうして何も持たなくなることを心配する必要がありましょうか。あなたが本当に、夫人以下の女性たちを兵士たちの間に編入させ、それぞれ仕事を分担させ、家にあるものをことごとく分け与えて兵士たちにふるまうことができれば、まさにこの危急存亡の時にこそ、恩恵は与えやすいものとなるでしょう」と。そこで平原君はその計略の通りに実行し、勇敢な兵士三千人が皆決死の覚悟で立ち上がり、李談に従って秦軍に突撃した。秦軍はこれによって三十里も退却し、ちょうど楚と魏の救援も到着したため、秦軍はついに包囲を解いた。李談は戦死し、その父は孝侯に封じられた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・里仁篇子曰く、「我未だ仁を好む者と、不仁を悪む者とを見ざるなり。仁を好む者は、以て之に尚(くわ)うる無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為すや、不仁者をして其の身に加えしめず。能く一日其の力を仁に用うること有らんか。我未だ力足らざる者を見ざるなり。蓋し之有らん、我未だ之を見ざるなり。」
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「身、道を行わざれば、妻子にも行われず。人を使うに道を以 てせざれば、妻子にも行わるること能わず。」
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十七条憲法 第八条群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、早(つと)に朝(まい)りて晏(おそ)く退(しりぞ)け。公事(くじ)盬(しお)きこと靡(な)く、終日(ひねもす)にも尽(つ)くし難(がた)し。是(ここ)を以(もっ)て遅(おそ)く朝(まい)れば急(きゅう)に逮(およ)ばず、早く退(しりぞ)けば必(かなら)ずその功(こう)を尽(つ)くさず。
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論語・衛霊公篇子曰わく、身をもって厚くし、人を責むること薄ければ、すなわち怨み遠し。
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史記 孫子呉起列伝起の将為るや、士卒の最下の者と衣食を同じくす。臥するに席を設けず、行くに騎乗せず、親ら贏糧を裹ひ、士卒と労苦を分かつ。卒に疽を病む者有り、起、為に之を吮ふ。卒の母、聞きて之に哭す。人曰く、「子は卒なり、而るに将軍自ら其の疽を吮ふ、何ぞ哭するを為す」と。母曰く、「然るに非ざるなり。往年、呉公、其の父を吮ひ、其の父、戦ひて踵を旋さず、遂に敵に死す。呉公今又其の子を吮ふ。妾、其の死所を知らず。是を以て之を哭す」と。
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六韜・励軍武王 太公に問ひて曰く、「吾 三軍の衆をして、城を攻むれば先登を争ひ、野戦すれば先赴を争ひ、金の声を聞きて怒り、鼓の声を聞きて喜ばしめんと欲す。之を為すこと奈何」と。太公曰く、「将に三あり」と。武王曰く、「敢へて其の目を問はん」と。太公曰く、「将 冬に裘を服ず、夏に扇を操らず、雨に蓋を張らず、名づけて礼将と曰ふ。将 身づから礼を服せざれば、以て士卒の寒暑を知る無し。隘塞を出で、泥塗を犯すには、将 必ず先づ下りて歩む、名づけて力将と曰ふ。将 身づから力を服せざれば、以て士卒の労苦を知る無し。軍 皆な次を定めて、将 乃ち舎に就く。炊ぐ者 皆な熟して、将 乃ち食に就く。軍 火を挙げざれば、将も亦た挙げず、名づけて止欲将と曰ふ。将 身づから止欲を服せざれば、以て士卒の飢飽を知る無し。将 士卒と寒暑・労苦・飢飽を共にす、故に三軍の衆、鼓の声を聞けば則ち喜び、金の声を聞けば則ち怒る。高城深池、矢石 繁く下るも、士は先登を争ふ。白刃 始めて合ふも、士は先赴を争ふ。士は死を好みて傷つくを楽しむに非ざるなり。其の将の寒暑・飢飽を知ること審らかにして、労苦を見ること明らかなるが為なり」と。