説苑 / 貴德
孟簡子相梁并衛,有罪而走齊,管仲迎而問之曰:「吾子相梁并衛之時,門下使者幾何人矣?」孟簡子曰:「門下使者有三千餘人。」管仲曰:「今與幾何人來?」對曰:「臣與三人俱。」仲曰:「是何也?」對曰:「其一人父死無以葬,我為葬之;一人母死無以葬,亦為葬之;一人兄有獄,我為出之。是以得三人來。」管仲上車曰:「嗟茲乎!我窮必矣,吾不能以春風風人;吾不能以夏雨雨人,吾窮必矣。」
新字:孟簡子相梁并衛,有罪而走斉,管仲迎而問之曰:「吾子相梁并衛之時,門下使者幾何人矣?」孟簡子曰:「門下使者有三千余人。」管仲曰:「今与幾何人来?」対曰:「臣与三人倶。」仲曰:「是何也?」対曰:「其一人父死無以葬,我為葬之;一人母死無以葬,亦為葬之;一人兄有獄,我為出之。是以得三人来。」管仲上車曰:「嗟茲乎!我窮必矣,吾不能以春風風人;吾不能以夏雨雨人,吾窮必矣。」
書き下し
孟簡子梁を相として衛を并せしも、罪有りて斉に走る、管仲迎へて之に問ひて曰く、「吾子梁を相として衛を并せし時、門下の使者幾何人ぞや」と。孟簡子曰く、「門下の使者三千余人有り」と。管仲曰く、「今幾何人と与に来れる」と。対へて曰く、「臣三人と俱にす」と。仲曰く、「是れ何ぞや」と。対へて曰く、「其の一人は父死して以て葬る無し、我之が為に葬れり。一人は母死して以て葬る無し、亦た之が為に葬れり。一人は兄獄有り、我之が為に出せり。是を以て三人来るを得たり」と。管仲車に上りて曰く、「嗟茲かな、我窮すること必せり。吾春風の人を風する能はず、吾夏雨の人を雨する能はず、吾窮すること必せり」と。
現代語訳
孟簡子は梁の宰相として衛国をも併せ治めていたが、罪を得て斉に逃げてきた。管仲がこれを出迎えて尋ねた、「あなたが梁の宰相として衛を併せ治めていたとき、門下に仕える使者は何人いましたか」と。孟簡子は「門下の使者は三千人余りいました」と答えた。管仲は「では今、何人と共に来られたのですか」と尋ねた。孟簡子は答えた、「私は三人と共に来ました」と。管仲が「それはどういうわけですか」と尋ねると、孟簡子は答えた、「その一人は父が死んでも葬る金がなかったので、私が葬ってやりました。一人は母が死んでも葬る金がなかったので、これも私が葬ってやりました。一人は兄が訴訟に巻き込まれたので、私が出させてやりました。それでこの三人だけが付いて来てくれたのです」と。管仲は車に乗り込んで言った、「ああ、私はきっと行き詰まるだろう。私は春風のように人を潤し暖めることができず、夏の雨のように人を潤し養うことができない。私はきっと行き詰まるに違いない」と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
説苑・尊賢宗衛斉に相たりしが、逐われて罷りて舎に帰るに遇う。門尉田饒等二十有七人を召して問いて曰く、「士大夫誰か能く我と諸侯に赴く者ぞ」と。田饒等皆伏して対えず。宗衛曰く、「何ぞ士大夫の得易くして用い難きや」と。饒対えて曰く、「士大夫の用い難きに非ず、是れ君の用うる能わざるなり」と。宗衛曰く、「士大夫を用うる能わざるとは何若」と。田饒対えて曰く、「厨中に臭肉有れば、則ち門下に死士無し。今夫れ三升の稷、士に足らずして、君の雁鶩は粟余り有り。紈素綺繍靡麗なり。堂楯風雨に従いて弊るるも、士曾て以て衣を縁る得ず。果園の梨栗、後宮の婦人摭いて以て相い擿つるも、士曾て一嘗する得ず。且つ夫れ財なる者は、君の軽んずる所なり。死なる者は士の重んずる所なり。君輕んずる所の財を用うる能わずして、士をして重んずる所の死を致さしめんと欲す、豈に難からずや」と。是に於いて宗衛面に慚色有り、逡巡して席を避けて謝して曰く、「此れ衛の過ちなり」と。
-
説苑・貴德趙簡子春臺を邯鄲に築く、天雨ふりて息まず、左右に謂ひて曰く、「種を趨むる無かるべきか」と。尹鐸対へて曰く、「公事急なれば、種を厝きて臺に懸く、夫れ種を趨めんと欲すと雖も、得る能はざるなり」と。簡子惕然として、乃ち臺を釈きて役を罷めて曰く、「我臺を以て急と為すも、民の急に如かず、民臺を為さざるを以て、故に吾が愛を知らん」と。
-
戦国策・孟嘗君舍人有與君之夫人相愛者孟嘗君の舍人に君の夫人と相愛する者有り。或ひと以て孟嘗君に問ひて曰く、「君の舍人爲りて内に夫人と相愛す、亦た甚だ不義なり、君其れ之を殺せ。」君曰く、「貌を睹て相ひ悅ぶは、人の情なり、其れ之を錯(お)きて言ふ勿かれ。」居ること期年、君夫人を愛する者を召して之に謂ひて曰く、「子文と游ぶこと久し、大官未だ得可からず、小官公又欲せず。衛君文と布衣の交ひあり、請ふ車馬皮幣を具へん、願はくは君此を以て衛君に從ひて遊べ。」衛に於て甚だ重んぜらる。齊・衛の交惡しく、衛君甚だ天下の兵を約して以て齊を攻めんと欲す。是の人衛君に謂ひて曰く、「孟嘗君臣の不肖を知らず、臣を以て君を欺かしむ。且つ臣聞く、齊・衛の先君、馬を刑し羊を壓し、盟ひて曰く、『齊・衛後世相攻伐する無かれ、相攻伐する者有らば、其の命をして此の如くならしめん。』と。今君天下の兵を約して以て齊を攻めんとす、是れ足下先君の盟約に倍きて孟嘗君を欺くなり。願はくは君齊を以て心と爲す勿かれ。君臣に聽かば則ち可なり、臣に聽かずんば、臣不肖なるが若きも、臣輒ち頸血を以て足下の衿に湔がん。」衛君乃ち止む。齊人之を聞きて曰く、「孟嘗君善く事を爲すと語る可し、禍を轉じて功と爲す。」
-
史記 孟嘗君列伝斉王秦楚の毀に惑ひ、孟嘗君名其の主より高くして斉国の権を擅にすと以為ひ、遂に孟嘗君を廃す。諸客孟嘗君の廃せらるるを見て、皆去る。馮驩乃ち西のかた秦王に説き、陰かに孟嘗君を迎へしむ。又東のかた斉王に説きて曰く、「秦使車十乘に黄金百鎰を載せて以て孟嘗君を迎ふ。王何ぞ秦使の未だ到らざるに先んじて、孟嘗君を復し邑を益して以て之に謝せざる」と。斉王乃ち孟嘗君の相位を復し、又益すに千戸を以てす。斉王孟嘗君を廃せしより、諸客皆去る。後召して之を復す。孟嘗君嘆じて曰く、「客文の一日廃せらるるを見て、皆文に背きて去り、文を顧みる者莫し。如し復た文を見る者あらば、必ず其の面に唾して大いに之を辱めん」と。馮驩曰く、「富貴なれば士多く、貧賤なれば友寡なきは、事の固より然るなり。君独り夫の市に趣く者を見ざるか、明旦肩を側てて門を争ひて入り、日暮の後市を過ぐる者臂を掉ひて顧みず。朝を好みて暮を悪むに非ず、期する所の物其の中に忘るればなり。願はくは君客を遇すること故のごとくせよ」と。孟嘗君再拝して曰く、「敬みて命に従はん」と。
-
孟子・梁惠王章句下鄒と魯と鬨う。穆公問いて曰く、「吾が有司の死する者三十三人。而るに民之に死する莫きなり。之を誅せんとせば、則ち勝げて誅す可からず。誅せざれば、則ち其の長上の死を疾視して救わず。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「凶年饑歲には、君の民、老弱は溝壑(コウ・ガク)に轉じ、壯者は散じて四方に之く者、幾千人ぞ。而るに君の倉廩は實ち、府庫は充ち、有司以て告ぐる莫し。是れ上慢にして下を殘うなり。曾子曰く、『之を戒めよ、之を戒めよ。爾に出づる者は、爾に反る者なり。』夫れ民今にして後、之を反すことを得たるなり。君尤むること無かれ。君仁政を行わば、斯に民は其の上に親しみ、其の長に死なん。」
-
説苑・復恩趙宣孟将に絳に上らんとす、翳桑の下に臥せる餓人有りて動く能はざるを見る、宣孟車を止めて之が為に下り、餐自ら含みて之に餔ふ、餓人再び咽みて能く食す、宣孟問ふ、「爾何為れぞ饑ゑて此くの若きか」と。対へて曰く、「臣絳に居り、帰りて糧絶ゆ、行乞を羞ぢて自ら致すを憎み、故に此くの若きに至れり」と。宣孟壺餐を之に与へ、脯二胊、再拝頓首して之を受くるも、敢へて食らはず、其の故を問へば、対へて曰く、「向者之を食らひて美なりき、臣に老母有り、将に以て之に貢ぜんとす」と。宣孟曰く、「子斯に之を食らへ、吾更に汝に与へん」と。乃ち復た之が為に簞食を為し、脯二束と銭百とを以て与ふ。之を去りて絳に居ること三年、晋の霊公宣孟を殺さんと欲し、伏士を房中に置き、宣孟を召して之に酒を飲ましむ、宣孟之を知り、中飲にして出づ、霊公房中の士に命じて疾く之を追殺せしむ、一人追ふこと疾く、既に宣孟に及び、宣孟の面に向ひて曰く、「今固に是れ君なるか、請ふ君の為に反りて、死せん」と。宣孟曰く、「子の名を誰と為すか」と。是に及びて且に対へんとして曰く、「何を以て名と為さん、臣は是れ夫の桑の下の餓人なり」と。遂に鬥ひて、死す、宣孟以て活くるを得たり、此れ所謂徳惠なり。故に君子を惠すれば、君子其の福を得、小人を惠すれば、小人其の力を尽くす、夫れ徳一人を活かして其の身に況んや万人に惠を置くをや。故に曰く、徳に小無く、怨みに小無し、豈に徳を樹つる無くして怨みを除き、利を人に務むべけんや、利する者は福報い、怨み往く者は禍来る、内に形るる者は外に応ず、慎まざるべからざるなり、此れ書の所謂徳に小無き者なり。詩に云く、「赳赳たる武夫、公侯の干城」、「済済たる多士、文王以て寧し」と。人君胡ぞ士を愛することを務めざるべけんや。