葉隠 / 聞書第十一
主君御大事の時、御命代りに立たざるものは、一人もあるべからず。されども、兼て覺悟したる者は稀なり。繼信は奧州罷立ち候時、妻子に向ひ、「我が君今度大軍に向はせ給へば、御命危き由の事なり。其の時我等御身代りに立つべし。」と申聞かせ、最後の暇乞して罷立ち候由。歷々の郎黨、命を惜しむ者あるべからずと雖も、兼ての覺悟仕りたる者一人もこれなく候ては危き事なり。
新字:主君御大事の時、御命代りに立たざるものは、一人もあるべからず。されども、兼て覚悟したる者は稀なり。継信は奥州罷立ち候時、妻子に向ひ、「我が君今度大軍に向はせ給へば、御命危き由の事なり。其の時我等御身代りに立つべし。」と申聞かせ、最後の暇乞して罷立ち候由。歴々の郎党、命を惜しむ者あるべからずと雖も、兼ての覚悟仕りたる者一人もこれなく候ては危き事なり。
書き下し
主君御大事の時、御命代(おいのちがわ)りに立たざるものは、一人もあるべからず。されども、兼ねて覚悟したる者は稀なり。継信(つぐのぶ)は奥州罷(まか)り立ち候時、妻子に向い、「我が君今度大軍に向わせ給えば、御命危き由の事なり。その時我等御身代りに立つべし。」と申し聞かせ、最後の暇乞(いとまご)いして罷り立ち候由。歴々(れきれき)の郎党(ろうとう)、命を惜しむ者あるべからずと雖(いえど)も、兼ねての覚悟仕りたる者一人もこれなく候ては危き事なり。
現代語訳
主君の一大事のとき、その身代わりに命を投げ出さない者など一人もいてはならない。とはいえ、あらかじめその覚悟を定めている者はまれである。佐藤継信は奥州を発つとき、妻子に向かって「我が君は今度の合戦で大軍に立ち向かわれるゆえ、お命が危ういとのことだ。そのときは我らが身代わりに立つ所存だ」と言い聞かせ、今生の別れを告げて出立したという。歴々の家来のうち、命を惜しむ者などいないはずだとはいえ、前もって覚悟を固めた者が一人もいないようでは危ういことである。
解説
この章句が説くこと
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