説苑 / 君道
或謂趙簡子曰:「君何不更乎?」簡子曰:「諾。」左右曰:「君未有過,何更?」君曰:「吾謂是諾,未必有過也,吾將求以來諫者也,今我卻之,是卻諫者,諫者必止,我過無日矣。」
新字:或謂趙簡子曰:「君何不更乎?」簡子曰:「諾。」左右曰:「君未有過,何更?」君曰:「吾謂是諾,未必有過也,吾将求以来諫者也,今我卻之,是卻諫者,諫者必止,我過無日矣。」
書き下し
或るひと趙の簡子に謂いて曰く、「君何ぞ更めざるか」と。簡子曰く、「諾」と。左右曰く、「君未だ過ち有らず、何ぞ更めん」と。君曰く、「吾是れ諾と謂うは、未だ必ずしも過ち有るにあらざるなり。吾将に求めて以て諫むる者を来さんとするなり。今我之を却けば、是れ諫むる者を却くるなり。諫むる者必ず止み、我が過ち日無からん」と。
現代語訳
ある人が趙の簡子に「あなたはどうして自らを改めないのですか」と言った。簡子は「わかった」と答えた。左右の者が「君にはまだ過ちはありません、どうして改める必要がありますか」と言った。君は言った。「私が『わかった』と言ったのは、必ずしも過ちが実際にあるからではない。私はこれによって私を諫めてくれる人を招き寄せようとしているのだ。もし今、私がこの意見を退ければ、それは諫言する者を退けることになる。そうすれば諫言する者は必ずいなくなり、私の過ちは絶えることがなくなるだろう。」
解説
簡子は、実際に過ちがあるかどうかにかかわらず、まず「わかった、改めよう」と応じることで、諫言する文化そのものを守ろうとした。反論や訂正よりも先に、意見を言いやすい空気を維持することを優先する判断である。正しいかどうかの吟味以前に、まず耳を傾ける姿勢を示さなければ、やがて誰も意見を言わなくなるという洞察は、心理的安全性が叫ばれる現代の組織運営にも直結する先見的な知恵である。
この章句が説くこと
心理的安全性諫言謙虚
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