戦国策 / 齊魏戰於馬陵
齊、魏戰於馬陵,齊大勝魏,殺太子申,覆十萬之軍。魏王召惠施而告之曰:「夫齊,寡人之讎也,怨之至死不忘。國雖小,吾常欲悉起兵而攻之,何如?」對曰:「不可。臣聞之,王者得度,而霸者知計。今王所以告臣者,疏於度而遠於計。王固先屬怨於趙,而後與齊戰。今戰不勝,國無守戰之備,王又欲悉起而攻齊,此非臣之所謂也。王若欲報齊乎,則不如因變服折節而朝齊,楚王必怒矣。王游人而合其鬥,則楚必伐齊。以休楚而伐罷齊,則必為楚禽矣。是王以楚毀齊也。」魏王曰:「善。」乃使人報於齊,願臣畜而朝。田嬰許諾。張丑曰:「不可。戰不勝魏,而得朝禮,與魏和而下楚,此可以大勝也。今戰勝魏,覆十萬之軍,而禽太子申;臣萬乘之魏,而卑秦、楚,此其暴於戾定矣。且楚王之為人也,好用兵而甚務名,終為齊患者,必楚也。」田嬰不聽,遂內魏王,而與之並朝齊侯再三。趙氏醜之。楚王怒,自將而伐齊,趙應之,大敗齊於徐州。
新字:斉、魏戦於馬陵,斉大勝魏,殺太子申,覆十万之軍。魏王召恵施而告之曰:「夫斉,寡人之讎也,怨之至死不忘。国雖小,吾常欲悉起兵而攻之,何如?」対曰:「不可。臣聞之,王者得度,而覇者知計。今王所以告臣者,疏於度而遠於計。王固先属怨於趙,而後与斉戦。今戦不勝,国無守戦之備,王又欲悉起而攻斉,此非臣之所謂也。王若欲報斉乎,則不如因変服折節而朝斉,楚王必怒矣。王游人而合其鬥,則楚必伐斉。以休楚而伐罷斉,則必為楚禽矣。是王以楚毀斉也。」魏王曰:「善。」乃使人報於斉,願臣畜而朝。田嬰許諾。張丑曰:「不可。戦不勝魏,而得朝礼,与魏和而下楚,此可以大勝也。今戦勝魏,覆十万之軍,而禽太子申;臣万乗之魏,而卑秦、楚,此其暴於戻定矣。且楚王之為人也,好用兵而甚務名,終為斉患者,必楚也。」田嬰不聴,遂内魏王,而与之並朝斉侯再三。趙氏醜之。楚王怒,自将而伐斉,趙応之,大敗斉於徐州。
書き下し
齊・魏馬陵に戦い、齊大いに魏に勝ち、太子申を殺し、十万の軍を覆す。魏王惠施を召して之に告げて曰く、「夫れ齊は、寡人の讎(あだ)なり、之を怨むこと死に至るまで忘れず。国小なりと雖も、吾常に悉く兵を起こして之を攻めんと欲す、何如(いかん)」と。対(こた)えて曰く、「不可なり。臣之を聞く、王者は度を得、覇者は計を知る、と。今王の臣に告ぐる所の者は、度に疏(うと)くして計に遠し。王固より先ず怨みを趙に属(つ)けて、而る後齊と戦えり。今戦いて勝たず、国に守戦の備え無くして、王又悉く起こして齊を攻めんと欲す、此れ臣の謂う所に非ざるなり。王若し齊に報いんと欲せば、則ち変服折節して齊に朝するに如かず、楚王必ず怒らん。王游人にして其の鬥(たたか)いを合わせしめば、則ち楚必ず齊を伐たん。休楚を以て罷齊を伐たしめば、則ち必ず楚の禽(とりこ)と為らん。是れ王楚を以て齊を毀(やぶ)るなり」と。魏王曰く、「善し」と。乃ち人をして齊に報ぜしめ、臣畜(しんちく)して朝せんことを願う。田嬰許諾す。張丑曰く、「不可なり。戦いて魏に勝たずして、朝礼を得るは、魏と和して楚を下すなり、此れ以て大勝と為す可し。今戦いて魏に勝ち、十万の軍を覆し、太子申を禽にす。万乗の魏を臣とし、秦・楚を卑(いや)しくす、此れ其の暴なること戾定(れいてい)に於いてなり。且つ楚王の人と為りや、用兵を好みて甚だ名を務む、終に齊の患いと為る者は、必ず楚なり」と。田嬰聴かず、遂に魏王を内(い)れて、之と並びに齊侯に朝すること再三す。趙氏之を醜(は)ず。楚王怒り、自ら将として齊を伐ち、趙之に応じ、大いに齊を徐州に敗る。
現代語訳
斉と魏が馬陵で戦い、斉が大勝して太子申を討ち取り、魏の十万の軍を全滅させた。魏王は惠施を召してこう告げた。「そもそも斉は私の仇敵であり、この怨みは死ぬまで忘れない。わが国は小さいが、常々全軍を挙げて斉を攻めたいと思っている。どうだろうか。」惠施は答えた。「いけません。私が聞くところでは、王者は物事の限度をわきまえ、覇者は計略を知るといいます。今、王が私に語られたことは、限度からも計略からもほど遠いものです。王はもともとまず趙への怨みを買い、その後で斉と戦われました。今、戦いに敗れ、国には守り戦う備えもないのに、王がまた全軍を挙げて斉を攻めようとするのは、私の考えとは相容れません。もし王が斉に報復したいとお望みなら、むしろ服装を改め礼を尽くして斉に朝見するのがよいでしょう。そうすれば楚王が必ず怒ります。王が(斉と楚を)争わせるよう仕向ければ、楚は必ず斉を討つでしょう。休養十分な楚に、疲弊した斉を討たせれば、斉は必ず楚に捕らえられます。これはつまり王が楚の力を借りて斉を打ち破ることになるのです。」魏王は「なるほど」と言い、人を遣って斉に、臣下として朝見したいと申し出させた。田嬰(斉の宰相)はこれを許諾した。張丑は言った。「いけません。戦って魏に勝てないまま朝見の礼を受けるのなら、それは魏と和睦して楚を抑えることになり、これは大勝利と言えます。しかし今は戦って魏に勝ち、十万の軍を全滅させ、太子申を捕虜にしました。大国である魏を臣下として従え、秦・楚をも見下すことになれば、この振る舞いはあまりに激しく、度が過ぎたものになります。そもそも楚王の人となりは、戦を好み名声を強く求める人物です。結局のところ斉の患いとなるのは、必ず楚でしょう。」田嬰はこの忠告を聞き入れず、ついに魏王を朝見させ、共に何度も斉侯に朝見の礼を行わせた。趙はこれを恥ずべきことだとした。楚王は怒り、自ら軍を率いて斉を討ち、趙もこれに呼応し、斉を徐州で大いに打ち破った。
解説

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